『千日の瑠璃』192日目——私は談笑だ。(丸山健二小説連載)

 
私は談笑だ。
世一の姉とストーブ作りの男のあいだに交され、淀みなくつづく、下心でいっぱいの談笑だ。男は本降りになった雨を横切って図書館までやってきた。そして、「たまには感性を磨かなくては」などと言って、棚の上のほうから分厚い美術書を選んだ。本に眼を落としながら、彼は女に話しかけた。その機会を待ちに待っていた女には、相手の心中を忖度する余裕などまったくなかった。男の声を全身に浴びただけで気が動転し、ともかく相手の歓心を買おうとしてべらべら喋った。

男は役者だった。少なくともそうした女の扱い方をよく知っていた。彼は自分がどう見られ、どう思われているか承知のうえで、あらかじめ用意した筋書きに沿って話を進め、顔の筋肉を操った。そんな男の水際立った演技に、三十年ものあいだ異性と接することができなかった女は、ひたすら酔い、主観のみに頼る性癖がますます強まり、遂には、理想に近い男の急接近をはっきりと自覚した。つまり私は、ものの三十分と経たないうちに、両者を知人から友人へ、友人からそれ以上の関係へと高めたのだ。

しかし男は、図に乗ってぼろを出すようなへまはしなかった。引き揚げ時を心得ている彼は、にじり寄ったり甘言で釣り出したりはせず、きょう中に片づけなくてはならない仕事があるからと嘘をついて帰って行った。女は残された私の余韻をひしと抱きしめた。
(4・10・月)

丸山健二×ガジェット通信

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