『千日の瑠璃』161日目——私は雪崩だ。(丸山健二小説連載)
私は雪崩だ。
終夜降りつづいた暖かい雨のせいで、うつせみ山の南側の急斜面に発生した、一回限りの雪崩だ。それほど大した規模ではない私だが、音だけは立派で、落ちかかる雷火のような轟音に成長したかと思うと、まほろ町の夜明けをびりびりと震わせる。物凄じい音で眼を醒ました人々は、いよいよ間近に迫った春を知って、束の間心をときめかせる。そしてまほろ町に移り住んでまもない人々は、地殻の変動を連想して、がばっと飛び起きる。
私は数千本の若木を薙ぎ倒し、浮き石を巻きこみ、周辺の気圧をいくらか下げ、谷を駆け抜け、勢い余って池へと突っこむ。私に押された水が、どっと外へ溢れ出る。もし雪の量が倍あったなら、被害は甚大なものとなったに違いない。私の持てる力では、池全体を埋め尽くすことなどできず、従って、底の方でひとかたまりになって眠っている錦鯉を岸へ弾き飛ばすような真似も無理だった。
小屋と呼んだほうがふさわしい家から飛び出してきた男は、眼前の私と、私の背後に峙つ峻険なうつせみ山を仰ぎ見る。それから気を取り直した彼は、雪のせいで水温が急に下がり、鯉が浮いてくるのではないかと心配し、まだうねりがおさまっていない水面を凝視する。もはやただの雪の塊に過ぎない私は、水といっしょに、悲しみに裏打ちされた怒りをも吸い取ってゆく。やがて男は私に言う。「やるならおれもいっぺんに押し潰してくれ」
(3・10・金)
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