『千日の瑠璃』137日目——私は風船だ。(丸山健二小説連載)

 

私は風船だ。

本当はどうでもいい何かの記念行事の際に飛ばされ、くたくたになって山と湖の町へ辿り着いた、青い風船だ。私の色は水にも空にも、また、オオルリにも似ていない。浮力を失いかけている私は、湖畔の松林をしばし漂う。目敏い鳥が私を追いかけ、もう若くはない女が自転車に乗って私を追い回す。彼女はやっとのことで私をつかまえると、自転車を麓の小屋にしまい、そこでゴム長靴に履き替え、丘の頂きをめざして雪道を登って行く。

女の首筋のあたりから、春や、僥倖や、男を待ち望む熱が放たれており、それが私をいくらか元気にさせている。あるいは、高度が増すにつれて下がる気圧の影響によるものかもしれない。そして、丘の家まであと少しというところまできたとき、彼女は突然、自身の運命を占う意味を勝手にこめて、私を解き放すことにする。私が丘を越えれば吉、湖へ向って降下すれば凶。

私は彼女の体熱と、町が暖めた大気によって上昇し、人だまに似た形を保って丘の一軒家の方へと引き寄せられて行く。二階の部屋の窓の内側では籠に入れられた青い鳥が、至妙なさえずりを得意げに披露し、その隣りでは青と自のセーターを着た少年が、軟体動物に似た動きを反復している。私に気づいたオオルリは沈黙し、少年は凶変にでも遭ったような顔をする。それから私は丘の頂きを水平に移動し、見あげる女の視野の外へ出て行く。
(2・14・火)

丸山健二×ガジェット通信

  1. HOME
  2. エンタメ
  3. 『千日の瑠璃』137日目——私は風船だ。(丸山健二小説連載)
  • ガジェット通信編集部への情報提供はこちら
  • 記事内の筆者見解は明示のない限りガジェット通信を代表するものではありません。

記事ランキング