『千日の瑠璃』116日目——私は縫いぐるみだ。(丸山健二小説連載)
私は縫いぐるみだ。
死んだ愛犬の代りとして盲目の少女にあてがわれた、抱き心地のいい、犬の縫いぐるみだ。少女は飼っていた犬の名をそのまま私につけた。しかし残念ながら私には、彼女を励ます声を発することも、迫った危険を教えてやることもできなかった。彼女は今は亡き親友の幻を追って私をきつくきつく抱きしめながら、きょうもまた袋小路の突き当たりにうずくまって、置物のようにじっとしていた。
少女の白い顔や白い手が、まほろ町に降り注ぐ日光と、まほろ町に吹く寒風とをしかと感知していた。だが、誰よりも鋭いはずの聴覚や嗅覚は、悲しみと追憶に妨げられてほとんど正常な働きをしていなかった。そのため、すぐ近くまできている、私よりも不完全な形の少年にまったく気づいていなかった。私は彼のことを、小癪な奴だと思った。
すべては一瞬の出来事だった。少女は声をあげる間もなく私を奪い取られてしまった。少年は突然奪い、突然与えたのだ。私は少年の手に移り、雪よりも白い仔犬が少女の手に渡った。ついで少年は、大通りの方へ向って駆け出した。おそらく彼としてはそれでも全力で走っていたのだろうが、ひとつ目の角を曲るまでに盲目の少女に追いつかれた。本当にもらっていいのか、と少女は念を押した。棄てられていた犬だという答弁を聞いた途端、少女は私のことを忘れた。
私は今、ごみの焼却炉のなかで燃えている。
(1・24・火)
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