ベニン帝国の国旗が「俺TUEEE」
かつて西アフリカに存在したダホメ王国(現在のベナン共和国)の可愛らしい国旗に続いて、ダホメに近い現在のナイジェリア南東部に存在したベニン帝国(1170 – 1897年)が使用していたショッキングなデザインの国旗を紹介します。戦士が剣で武器を持たない相手の首をはねる瞬間をデザインした、いかにも「俺TUEEE」と主張したげなデザインのこの国旗は、ベニン帝国の神話に登場する永遠の命を持った女神バエシュがいずれ年老いて死んで行く運命の人間に裁きを与える瞬間を描写したものであると言われており、赤はバエシュを象徴する色とされています。デザインのインパクトが大きいことから現在も一部で人気を博しており、このデザインを組み込んだTシャツや帽子・バッグなども作られています。
「ベニン」は帝国の全盛期に西アフリカのかつて“奴隷海岸”と呼ばれた一帯の総称となっていた地名で、その海岸に面した海が“ベニン湾”と命名されたが現在のベナン(“Benin”のフランス語読み)の国名の由来となっていますが、ベナン共和国やその前身のダホメ王国とベニン帝国に直接の繋がりはなく、両国はむしろ西アフリカで様々な国家が群雄割拠する中で敵対関係にあった時代の方が長く続いていました。ベニン帝国は12世紀後半にエド人が建国し、エド帝国とも呼ばれた国家で隣接するナイジェリア南西部を拠点としていたヨルバ人と同盟関係にあり、14世紀から15世紀が黄金時代だったと言われています。大航海時代にポルトガル人がアフリカ南端の喜望峰を目指すようになると中継点として栄え、16世紀に入ってナイジェリアの旧首都で現在も西アフリカ最大の都市であるラゴスにヨーロッパ風の近代都市が建設されてからはアメリカ大陸との奴隷貿易拠点として栄えました。ベニン帝国も17世紀から18世紀にかけては近隣のダホメ王国やオヨ王国、現在のガーナに拠点を築いていたアシャンティ王国と同様に隣国へ戦争を仕掛けて捕虜を奴隷として売り渡す奴隷貿易で莫大な収益を上げていたのですが、18世紀後半になるとかつて同盟関係にあったヨルバ人のオヨ王国やダホメ王国に押されて衰退し始めます。
1797年、イギリスでは奴隷として使役されていた所を逃亡した男性の地位確認が争われたサマーセット事件により「人を奴隷の身分に置くことは非合法である」との判決が下され、イギリス国内では奴隷の私有や取引が禁じられることになりましたが、イギリスの植民地ではこの政策が徹底されなかったばかりか国外(特にアメリカ大陸)を取引相手とする闇市場は依然として横行したので1807年に奴隷貿易禁止法が制定され、イギリス海軍はポルトガルの奴隷貿易拠点だったラゴスを陥落させました。しかし、奴隷貿易禁止法の制定後に海軍の摘発を恐れて奴隷商人が船から奴隷を海に“投棄”する悲惨な事件が相次いで発生します。こうした事態を受けて主にインドからの引揚者が中心となって奴隷貿易のみならず奴隷制度の全面禁止を徹底するよう議会への働きかけが続けられた結果、1833年には新たな奴隷制度廃止法が成立し、イギリス海軍は徹底した奴隷貿易取締政策を打ち出し「自国民が関わっていない奴隷貿易に関しても海賊行為として取り締まる」ことを宣言したのでした。
ラゴスが陥落した後、公然と奴隷貿易を行えなくなったベニン帝国は19世紀半ばにイギリスの保護領となりパーム油の輸出に活路を見出しますが、1897年にベニンシティでイギリス人が殺害された事件を発端にイギリス海軍が帝国全土を急襲し700年以上続いた帝国は壊滅してしまいました。国旗で「俺TUEEE」と誇示していても、イギリス軍の圧倒的な武力には太刀打ち出来なかったのです。イギリス保護領南ナイジェリアの一部となったベニン帝国の領域は後に周辺のラゴスや北ナイジェリアと統合され、1960年にイギリスから独立しました。それから3年後、1963年に新憲法を制定してナイジェリア共和国となり、現在に至っています。
Spreadshirt(Tシャツ、帽子、バッグなど)
http://www.spreadshirt.com/benin-empire-flag-caps-C3376A9349628 [リンク]
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