『千日の瑠璃』82日目——私は帽子だ。(丸山健二小説連載)
私は帽子だ。
つばの形が少し変ってはいても、限りなく野球帽に近い、無地の帽子だ。私は突風に吹き飛ばされ、表面ががちがちに凍てついた雪原をころがり、更に丘の上まで飛ばされて、ちょうど家を出たばかりの少年に拾われた。少年は私をひっつかむと家に取って返し、つばの部分にじょきじょきと鋏を入れて両端を切り落とし、先端を三角定規のように、あるいは烏の嘴のように尖らせた。そして、私をつむじのない頭にのせるとすぐにまた外へ飛び出して行き、傾いた太陽に背を向け、足元に落ちている己れの長い長い影を見つめた。それから彼は私の角度をあれこれと変え、最も鳥に近い形の影を作った。
少年の影は烏になった。彼は鋭い嘴を振りかざして仮想の虫をつつき、よく練られた栄養満点の餌をぱくつく仕種を幾度も繰り返し、水を飲み、胸を震わせてさえずった。ついで彼は、崖っ縁の揺らぎ岩に苦労してよじ登り、落差一メートルの飛翔を楽しんだ。肉体が宙にある一瞬のあいだ、彼は落ちているのではなく、まさしく飛んでいたのだ。二度目に挑もうとしたとき、丘を駆け上がってきた湖からの風が私を吹き飛ばした。少年は私を追いかけた。崖の寸前で私をつかまえた彼は、しばし棒立ちになって、白波で覆われた湖が眼下に見え、光が渦を巻く崖の下を覗きこんだ。だが、少年はそっちへ飛ぼうとはしなかった。冷たい太陽が、力み返ることなくあしたの方向へ沈んで行った。
(12・21・水)
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