『千日の瑠璃』62日目——私は本だ。(丸山健二小説連載)
私は本だ。
まほろ町立図書館にある、大半が印刷されてから読まれていない、数万冊の本だ。私は重力に従って、棚や床板や土台の柱や大地を意味もなく押す日々を反復している。ただひとりの愛好者といってもいい、気に入れば何回でも精読してくれる貸し出し係の女も、このところまったく私を相手にしなくなった。窓の外にばかり顔を向け、一日中遣る瀬ないため息をついている。その限が捉えているのは、私を更に上回る虚像だ。
彼女は突然、私に一場の夢を託すことをやめ、あれだけのめりこんだ恋愛小説からすっと身を引いてしまった。とはいえ、そのへんにいくらでもころがっている現実に打ちのめされて興が醒め、何もかもを諦めたというわけではない。たとえば、厭でも生きなくてはならぬ退色した日常に真っ向からぶつかってゆく覚悟を固めたのでもなければ、たとえば、気持ちよく晴れた日にあっさりと首を吊った親友の流儀に倣おうと意を決したのでもない。
つまり、私のなかでしか起きなかったロマンというやつが、あるいは、いつも他人の身の上にしか起きないきららのように眩い変化が、とうとう彼女にも起きつつあったのだ。ため息をつくたびにその予感が強まり、彼女の胸のうちを、溶接の火花と共に生きるストーブ作りの男が占めてゆく。切なく飛び散る火花は、私に付け入る隙を与えない。
(12・1・木)
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