『千日の瑠璃』61日目——私は消化栓だ。(丸山健二小説連載)

 

私は消火栓だ。

先日毒々しい色に塗り直されたばかりだというのに、相変らず少しも目立たない消火栓だ。それでも私は孤独ではない。酔っ払いたちは私に抱きついて内々の話をしたがり、放し飼いにされている犬どもは競って私に小便を掛けたがり、野育ちの少年世一は私の頭をひと撫でしないことには決して通り過ぎない。そして銀色に輝く白髪の老婆は、朝な夕なに声を掛けてくる。そのことにほとんど誰も気づかないのは、彼女の腰がひどく曲っていて、顔の位置が私の高さとちょうど同じだからだ。

老婆の言うことはいつも変らない。「ご苦労さんだねえ」とそればかりだ。だが、彼女が私の本来の役目を理解しているかどうかは甚だ疑問だ。その証拠に、郵便物を押し込まれそうになったことが、これまでに幾度かあった。そうかと思うと、迷子だときめつけられてしまったこともあった。

きょう、老婆は私の前で世一とかち合った。さかんに私を撫で回す世一に向って、老婆は「おまえはこの子の友だちかい?」と訊いた。すると世一は全身の震えを唇に集中し、跡切れ跡切れに、友だちなどではないと答え、「これはおれだよ」と言った。だが、老婆の遠くなった耳には正しく伝わらなかった。彼女には、ただの消火栓だとそう聞えた。

世一は冷たい風に吹かれて通りを横切って行った。取り残された老婆は、私に両腕を回して子を抱き寝する母親になりすました。
(11・30・水)

丸山健二×ガジェット通信

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