『千日の瑠璃』53日目——私は影だ。(丸山健二小説連載)
私は影だ。
帰宅を急ぐ工員たちが砂利道に落とす、長くて憂色の濃い影だ。私を足棚のように引きずりながら浮かぬ顔で歩くかれらのなかに、これはと思う人物はひとりもいない。つとに将来を属目されている者、誰かを見返してやるほどの気概を持っている者、妻の暴言に色をなして反論できる者、頭打ちになってしまった給料のことで経営者に堂々と掛け合える者、そんな男はいない。いるわけがない。
かれらは進んで発問することはなく、物議をかもすこともなく、札びらを切ることも絶対にない。かれらは課せられた日々の仕事をてきぱきと手ぎれいに片づけ、息休めに煙草を喫い、ほとんど毎日同じ昼食をとる。帰りの道すがらかれらは、勤務中に生じた蟠りのあれこれを、浅い憎しみをこめて私のなかへ投げ棄て、わが家の玄関の戸に手を掛ける前に、晩酌や夕げ、入浴や子どもとの他愛ない語らい、テレビや性交、そうしたことを楽しみにする男へと戻ってゆく。
しかし、皆が皆そううまくゆくわけではない。なかには、私のあまりに寂しい姿に気づいて大いにうろたえる者だっている。ひとたびそうなってしまうと、どこまでも落ちこみ、どこまでも畏縮するしかないのだ。だが、ともかくきょうの私は、地力の衰えた耕地を覆う匍匐性のある蔓のように、しぶとく、がっちりとまほろ町の大地をつかんでいる。少年世一に踏まれてもびくともしない。
(11・22・火)
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