塵涓抄(じんけんしょう) – 足立大進老大師 遺書

(写真素材:足成)

涅槃冗語(ねはんじょうご)

 お釈迦さまがお亡くなりになった時、お葬式をどうするかが問題になった。
 その時、一番弟子であった迦葉(かしょう)尊者が申された。「葬儀はこの土地の人々にお任せしたい。わたしたち佛弟子にとって大切なことは、お釈迦さまがお説きになった教えを、後世に伝え貽(のこ)すことである」と。
 そこで、後に、『経典結集(きょうてんけつじゅう)』と呼ばれる第一回目の集会が開かれることになった。集った仏弟子達は、それぞれに「私はお釈迦さまからこの様に聞きました」と一同の前で唱え、それが経典冒頭の『如是我聞(にょぜがもん)』になったのは周知のことである。
 自宅で葬儀を行(おこな)った戦前は、通夜は肉親と向こう三軒両隣りの主婦だけが集った。土葬が主(おも)であり、男子は翌日の穴掘りもあって、通夜には出なかった。故人の生前の話をすることが通夜の主眼で、僧侶が読経することも無かった。
 近頃、僧侶の葬式を密葬と津葬(しんそう)に分けて行うことも多くなったが、津葬は文字通り、港で船を見送ることであって、遺体は方丈(ほうじょう)に安置するものではなく、山門の外に置いて、出棺するものであった。戦前の古尊宿の話に依ると、「施餓鬼(せがき)」の行事のように、導師は本尊様を背にして、葬儀を行ったと聞いた。
 「形見分(かたみわけ)」と言って、親族や友人などに、故人の衣服や所持品を分け与えることも古くからあったが、今はその形式だけが残り、品物を用意する。
 僧侶の遺品として、最も評価されるべきは、その僧が生涯を貫いた行履(あんり、日常の生活)である。

 若い住職が入寺する時に、私は色紙に「黙」と書いて渡し、坊さんは喋ってはいかんと諭(さと)してきた。
 しかるに、朝比奈老師の命により、管長を三十年。その間、雲水への提唱(ていしょう)、日曜の説教、夏季講座など、「よくぞまあ」と呆れるほど話をしてしまった。
 良寛和尚は辞世の句として

形見とて 何か残さむ 春は花
夏ほとゝぎす 秋はもみぢ葉

 と詠まれた。
 良寛さんのように、気の利いた句も詠(よ)めないので、この冗語を遺教(ゆいきょう)代りに、準備しておく。
 一篇は、平成二十年に、神奈川県立逗葉(ずよう)高校で、荘厳(しょうごん)寺河野(こうの)住職のお骨折りで話したもの。今一つは、東京臨済会主催の「禅をきく会」での要旨を、知人がその会誌に転載されたもの。
 没後の斎会(さいえ、年忌法要)は一切無用。頂相(ちんそう)・語録(ごろく)作るべからず。
 法要での読経回向ではなく、若い世代にこの冊子を読んでもらえば、最高の法要となる。

驢年猫日(ろねんみようにち)
(平成二十六年涅槃会之晨)

若者に伝えたい「人間としての在り方生き方」 – 何を目指して生きるのか –

 産経新聞に「私の失敗」という題の記事がございました。
 逗子にお住まいの、ある会社の社長さんが、部下の結婚式に招かれ祝辞を頼まれた。社長さんですから、一番最初です。
 その部下を褒めて、「彼は前途有為(ゆうい)な青年である」というつもりでした。ところが緊張して、マイクの前に立った途端に「彼は前途”多難”な青年である」と言ってしまいました。「しまった。」冷や汗です。なんとか取り繕って話を終えました。その後で部長とかあるいは係長のような人たちが「先ほど社長が話したように、人生は前途多難ですから頑張ってください。」というように話をしてくれて、助け舟を得て安心をしたと。
 彼は前途”有為”であると、非常に有望でなんでもできると言おうとしたのが、前途多難といってしまった。本当に私たちの前途は多難です。わかりやすく言いますと、障害物競走に出ているようなものだとお考え願いたい。障害物競走、私たちはそれを生き抜くために、乗り越える何かすばらしい力を、持っていなければいけない。それはいったいなんだろうか。
 若いあなたがたには、私たち年寄りにはない、すばらしい財産がある。それが何であるか。それに気付いていただきたい。自分が持っているすばらしいものとは、いったい何か。それは夢であり、希望であると申し上げていいと思う。
 教育学の上では、可塑性(かそせい)と申します。塑と言う字は塑像などといいますけれども、やわらかい粘土のようなものをこねて、何かを作ることです。あなた方は若いのです。やわらかい粘土と同じで、これから何でも作られる。何にでもなれる性質をみなさんは備えている。そのことを自覚し、自信を持って生きるということが、一番大切だと申し上げたい。
 その、夢や希望を、実現するために、私たちがどうすればいいか、何を大切にすればいいかということを、きょうは考えていただきたい。
 日本のある新聞の論説委員が、オーストラリアのブリスベーンという町へ行きました。ブリスベーンというのは東海岸の、シドニーから七百キロばかり北のほうにあります。そしてそこの小学校の先生と話す機会があつた。
 「小学校に入ったばかりの一年生に、あなたの国は何を教えますか」と聞かれ「日本では平仮名とか片仮名とかあるいは数を計算するというふうなことを教えます」と答え「あなたの国ではなにを教えますか」と聞き返したら、その小学校の女の先生はこうおっしゃった。「この宇宙というものは、百数十億年前に、ビッグバーンという現象が起きて宇宙が出来上がつた、そして、四十六億年前と言われていますけれども、その頃に地球と言う形が整った。そのことを教えます。」と。
 みなさんご存知の通り、まず微生物からやがて魚のようなものが生まれてそしてその後に両棲類とか爬虫類とか鳥類とか哺乳類というふうに順を追って生まれてくる。四十六億年の地球の上で、人類と言うものは、わずか百数十万年にしかすぎないのです。「今ここにある命というものは、そういうずっと昔からのつながりの上で私たちが命をいただいていると、この大事なことを教えます。」とオーストラリアの先生がおっしゃった。
 そこで、その日本の論説委員の方が「そんな難しい話を小学校の一年生がおとなしく聞いていますか。」とたずねたら、「二週間か三週間そういった話をしますけれども、子供は一生懸命に聞いています。だからオーストラリアでは日本の、いじめのようなものは極めて稀で、めったにありません。」と答えられた。
 私たちが生きていくのに、何が大切か。命のあること、今ここに生きているということの素晴らしさに気付くことが一番大切です。そしてその命を無駄にしないために、自分が何をすればいいのか。
 ここにこんな小さな本があります。これは私が高校生の時に買った画家ミレーの伝記です。当時この本は三十円でした。今も私は大事に持っていて、中には赤い線がいっぱい引いてあります。何故この本を私がここへ持ってきたかをお話ししたいのです。
 ミレーの絵は、値段を考えるのはおかしいのですが、世界で一番高い、高価な絵であると言っていいと思う。何億とか何十億というような値段で取引されています。フランスにあるルーブル美術館のなかで、一番素晴らしいものはなんですかと聞くと、美術館の方は「ミレーの晩鐘です。」と答えるという。
 そのミレーがどうしてあんな素晴らしい絵を描けたのか。ミレーは十歳すぎにお父さんを亡くしています。姉さんが一人いて、そして、ミレーの下に七人の男の子がいました。ですから全部で兄弟が九人ですね。そしてお父さんが亡くなったものですから、自分は毎日、畑へ出て仕事をしなければいけない。ところが、絵がたいへんうまかった。ミレーも絵を描くことが大変好きでした。それでみんなが褒める。絵を勉強したいけれども、貧しくてなかなか勉強する機会が与えられない。やがて才能を見出した人が「君は絵描きになった方がいい」というので、絵描きの勉強を始め、やがてパリへ出てさらに精進をしました。
 ところが、いくら絵を描いても売れません。本当は農民の生活を描きたかった。農民の絵なんか描いても、ひとつも売れない。仕方なく、看板や女性のヌード、裸体画を描いて生活費を稼いでいた。
 ある時、ミレーが町へ出て、つい最近の絵を展示してある画廊の前を通りかかったとき、そこに、二人の青年がいて、「これは誰が描いた絵か」とたずねている。聞かれた方が「ミレーといって、女の裸ばっかり描いている奴の絵だよ」といった。それを聞いてミレーはうちへ帰って奥さんに話した。「僕はもう二度とヌードの絵は描きたくない。もっと貧しくなるけれども、いいかい?」と。
 そしたら奥さんはミレーの味方をして、「私はかまいません、あなたの好きな絵を思う存分描いて下さい。」と言って励ました。それからは、バルビゾンの田舎にこもって、後に有名になった作品をたくさん書き始める。四十歳近くになってからです。作品は少しも売れません。そして、四十後半から体を壊して五十をすぎてからは更に結核がひどくなって、喀血をくりかえすようになってしまいました。
 心配した友達がお金を届けたときに、ミレー夫婦と子供三人は地下室の隅っこで抱き合って、毛布をかぶって震えていました。お金を届けた友達に、「申し訳ない。とにかく寒い。薪を買ってきてくれ。」と、こういった。そういう生活の中で、ミレーは今日、世界の宝物となる絵を描き続けました。若い可塑性、”何にでもなれる力”を持ったみなさんにとって一番大切なものは夢と希望です。自分が何をやりたいかという希望を持つことが一番大切であると、こう申し上げたい。
 先ほど、河野先生がスライドを使いながら円覚寺の説明をしておられましたけれども、この河野先生のお父さんと私とは同じ頃に円覚寺で席を並べて坐禅していた間柄です。今の河野先生も、円覚寺で坐禅をされました。
 その坐禅はなんのためにするのかといえば、禅の世界ではこういう風に言います。(黒板に己事究明と書いて)コジキュウメイと読みます。コは己れです。自分とは何か、自己とは何かと。あなたがたはこういう問題を真剣にお考えになったことがありますか?自己とはなにか。言葉を変えて言うと、今どうしてここにおるかと。
 それを真剣に考えていないから、オレの勝手じゃないかというのが出てくる。オレの自由じゃないか、オレがオレがと出てくる。禅の修行で一番大切なのは、自分の命とは何か、どうして今ここに私が立っているか、この問題です。
 お釈迦様は真剣にこの問題に取り組まれた。なぜお釈迦様がこの問題と取り組まれたかと言うと、お釈迦様のお父さんとお母さんはご結婚なさってから、二十年位も子供ができなかったのですが、お母さんが四十歳を過ぎた頃に、お釈迦様がおなかに宿られた。今ですと、大きな産婦人科の病院があつて、帝王切開というような方法で、子供を産むこともできるでしょうけれども、今から二千五百年前のインドではそういうことはできません。お釈迦様のお母さんは、おなかの胎児を大事に育てられましたが、お釈迦様を生み落して一週間、昔は産後の肥立(ひだ)ちが悪いと申しますが、七日目にお母さん自身がお亡くなりになりました。
 私も体が弱くて四歳半で親の所から離れて、田舎の空気のいいところへと兵庫県の山奥へ預けられましたが、母親がいないということほど幼児にとって寂しいことはない。そこでお釈迦様は、お母ちゃんどうして死んじゃったの、お母ちゃんどうして死んじゃったのと、生命の問題が、大きなテーマとなつて、お釈迦様に迫った。
 どうして死んじゃったのということは、どうして今この命があるのかという、そしてどうして死ぬのかと。そこでお釈迦様は、「自分とは何か」という、この己事究明のご修行をなさった。そして、やがて、お悟りをひらかれた。お悟りの説明はいくらでもありますけれども、縁起という言葉は皆さんもよくお聞きになっていると思います。縁起がいいとか悪いとか。縁起。縁によって、起こるということです。縁というのは条件です。条件が整わなければ、今ここに自分の命はない。みなさんいつも親に向かって「オレの勝手じゃねえか」「オレの自由にさせろ」とおっしゃるけれど、縁がなければそのオレは今ここにいません。そのことすら今は忘れられてしまっている。
仏教の教えと言うものは縁によってすべてのものが存在をしている。いろんな縁、条件というものが絡まりあって命を支えていると説いています。
 華厳経というお経の中にこういうことが書いてあります。(黒板に帝網珠と書いて)「タイモウジュ」と読みます。帝釈天のいらっしゃる世界というのは人間の世界よりずっと上にあります。その空いっぱいに、網がはりめぐらされている。その網を帝網珠といいます。網というと餅を焼く平面の網を考えますけれども、この網は立体的な網です。空いっぱいに網が張り巡らされている。そして、世の中に存在するすべてのものは、その網の目にちりばめられている珠であると。それが帝網珠です。帝釈天の空に掛けてある網の結び目ごとについている珠です。しかもその珠がすばらしい。水晶とか真珠のような素晴らしい珠で、みなさん一人ひとりが全部その珠であると。この世の中に存在するものが全て帝釈様の世界の網の珠である。
 さて、あなたの珠、ぴかっと光ると隣の珠に光が映(うつ)る。隣の珠もまた綺麗(きれい)に磨かれた珠ですから、またそれも反射してまた別に伝えていく。あなたの命が、世の中の全てのものにずっとつながっている。そして、綺麗な珠ですから、向こうの珠が光れば、全部反射しあって、最後には、自分の珠に全部うつる。そういう素晴らしい世界を華厳経では説いています。
 オレ一人なんていう存在はないんです。いろんなご縁やお蔭をいただいている。そういうとみなさんの中には、いや電気代だって水道代だって払っているよと、おっしゃるかもしれない。でも、太陽の光線がさんさんと注いで、この明るさがある。太陽からあったかい熱を受け取って、料金払ってらっしゃる方ありますか?ないんです。空気だってそうです。今月あなたはこれだけの酸素を使ったから支払いなさいなんて請求はない。
 世の中の全てのものに支えられ、生かされているのがこの命であると。これが仏教の縁起の教えです。私たちはそれに気付かないでいる。仏さまの教えと言うのは、そういう全ての存在の関わり合いで私たちが支えられて、生かされているということを説いています。
 私の大学の頃、今津洪嶽という老教授がいらした。仏教の講義で、こういうことをおっしゃった。今は大学の教授が酒を飲んでから教室へ来たりすると、すぐにクビになりますが、私たちの時代は、古き良き時代であった。
 この先生は講演先の岐阜からの帰りで、車中でウイスキーのポケット瓶を傍へ置いて、チビリチビリ飲んでくる。午後になって京都の学校へ着いたころには酔っ払っている。その先生が赤い顔をしながら「X=無限大」と黒板にお書きになる。そして、「X=無限大、こいつがわかればな、もう仏教のお経なんか読むことはないよ。仏教は全部これでつきるんだ。」と。「禅宗、禅宗というけれども、禅の教えもX=無限大がわかりやあいいんだよ」そういう駄ボラみたいなことをおっしゃっていた。酔っ払っていうのですから、私たちはこんちきしょう、いい加減なことをいってやがると思った。
 いま考えてみると、これはすばらしい講義です。X=無限大、Xというのは自分の命です。自分の存在です。あなたがた一人ひとりが全部Xなんです。イコール無限大であるという。世の中の全てのものによって支えられ生かされている、空気も太陽も水も、ご両親も、あるいは弟や妹も。食べるもの、着るもの、全てのものに支えられて生かされている世界がある。
 天秤(てんびん)というはかりがあるでしょう。「天秤ばかり」。みなさんご存知ないと思うけど、昔はそういう重さを量(はか)る器械があつた。一方に重しを置いて、五グラムとか十グラムとか、こちらに物をのっけます。私のうちは歯医者でしたから、親父はよくそれで薬や金(きん)を量っておりました。あなたがたが天秤の片方に乗ったら、もう一方に宇宙のすべてのものを乗っけてやっとバランスがとれている。命というのはそういう素晴らしいものなのです。それをご縁であり、お陰であると受け取らなかったら、人間らしい生き方はできないと、こう申し上げていい。
 十日ほど前に、判決が下されましたけれども、福岡で一昨年酔っ払つた市役所の人が、追突して五人家族の乗った車を海へ落っことしました。その判決がこのあいだ言い渡されて、七年の懲役になりました。本当は危険罪(危険運転致死傷罪)とかなんとかで二十五年の求刑だったのですが、たった七年になってしまった。
 その報道の中でお母さんがこうおっしゃっていました。「残念だけれども、本当にわかってほしいことは、三人の子供の命は、ずっとずっと昔からのご先祖様からつながってきた命である、そしてこの事故がなければ、これからもずっと続いていく命であったということを知っていただきたい」と。お母さんは、あんまり愚痴を言わずにそうおっしゃった。素晴らしいお母さんだと思う。三人の子供の命が無限の過去からずっと、お爺ちゃんお婆ちゃんを通じて、伝わってきた命である、この事故さえなければ、これからもずっとつながっていく命であるとおっしゃっています。素晴らしいことだとおもう。
 最期にひとつ和歌をご紹介したい。これは与謝野晶子の歌です。
 「劫初(ごうしょ)より作(つく)り営(いとな)む殿堂(でんどう)に 我(われ)も黄金(くがね)の釘(くぎ)ひとつ打(う)つ」私たちのこの世の中、世界を”劫初より作り営む殿堂”と表現しています。
 劫(こう)というのは時間の一番長い単位です。何分とか何秒とかいうのがあって、何時というのがありますけれども、その一番上の長い時間の単位を「劫」という。反対は何かと言うと「刹那(せつな)」です。刹那主義なんていいます。短いほうは刹那であって、一番長い方が劫という。説明ができないほどの長い時間です。石劫(いしごう)とかケシ劫とかいう。
 昔は四十里(中国の古い単位では十里が四キロメートル)と言いましたが、今の単位に直すと十六キロメートル。その十六キロメートル四方くらいの大きな石がある。そこに百年に一度、天上界から天女が舞い降りてくる。その三銖(しゅ)ほどの重さの(今の二グラムくらい。着ているものが全体で二グラム。)着物の袖(そで)で、今の大きな石の上を一回スーツとなでるんです。そして天に帰っていく。また百年したらやってきて、同じようにスーツとなでる。そうしているうちに、十六キロメートル四方の大きな石がだんだん磨り減って、なくなってしまう時間を一劫という。
 ケシ劫というのは、十六キロメートル四方くらいの大きなマスがあって、いっぱいケシの実が詰まっている。やはり百年に一度天女が天上界からやってきて、一粒のケシを外へ放り出す。そして、十六キロメートル四方の大きなマスが空っぽになってしまう時間を劫という。
 いいですか?ビッグバーン以来ずっと続いてきた、この私たちの世界、劫初、より作り営む殿堂。いま私たちの住んでいるこの世の中は、そういう長い年月を経て、みんなの努力で作り上げられたものである。
 その素晴らしい世界に我も黄金の釘ひとつ打つ。鉄の釘というのはさびてしまいます。黄金の釘はさびない。柱一本立てるだとか、屋根に瓦乗っけるだとか、そんなことまではできないかもしれないけれど、私も自分の一生を通じて、そこに永遠にさびない釘一本を添える努力をしたいという歌です。
 「劫初より 作り営む 殿堂に 我も黄金の 釘ひとつ打つ。」
 自分の命がたくさんのご縁とお陰に生かされていると気がついたときに、自分の命の全てをかけて、その世界にプラスになる何かをしたいという。
 ミレーが一生貧乏の中で描き続けた絵が、世界最高の絵だといわれている。儲(もう)かるとか、儲からないとか計算ばかりしていないで、あなたがたも自分の命を、世の中のために捧げたいという気持ちで努力していただきたい。
 そういう心のこもった生き方をしなかったら、僕は本当にやるだけのことはやったと言って、胸を張ることはできないのです。
 あそこに「やる気! 元気! 逗葉高校!」と書いてある。自分が志をたてて、何かやろうとする気持ちが溢(あふ)れているから、字がどんな形をしていようと、それが心を打つのです。あなたがたの生き方を通じて、この世の中に爽(さわ)やかな何かを残すということを今から志していただきたい。それをお願いいたします。
 たった一冊の三十円の本です。私を今日まで支えてくれたのはこの本だと言ってもいい。みなさんもどうか自分の一生を正しい方に向けていくような、そういう一冊の書物を持って欲しい。あなたがたがお父さんやお母さんの本棚を覗いても、必ずそういう本があるはずです。夢と希望を持って、そしてやわらかい粘土のようなあなたがたが無駄な生き方をしないように、お願いして私の話を終わらせていただきます。

紫衣(しえ)から黒(くろ)へ

夏の夜の夢

 「聖人に夢なし」といふ言葉がある。聖人といふのは、中国における理想的な人物ですが、仏教で言へば、悟りを開いた方と申し上げてもいゝかと思ふ。
 聖人は、心が正しい、したがって迷ひがなく、ぐっすり眠ることができる。安眠をすると、つまらない夢を見ない。何か心に引っかゝるものがあると、それが夢に現れます。

 この夏、私はこんな夢を見ました。
 京都の或る本山にお供を連れて、大きな儀式に参列を致しました。受付へ行きますと、今日の法要にはこの法衣を着てご出頭下さいと頼まれた。承知しましたと言って、風呂敷包みのような物を預って、お供の者に托した。
 ずっと、奥の方の控室へ通されて、お茶が出たり、先方の和尚の挨拶があったりし、やがて時間となり、鐘が鳴り太鼓が鳴り始めた。
 そこに居らした各山の管長さん方は、どんどんお召替へをなさってゐる。私はお供の者に、「おい、先程の法衣は」と言ひましたら、「あ、どっかに忘れて来ちゃった」と言うんです。「探して来ます」と飛び出して行った。
 他の老師方は、全部支度をなさってゐるのに、私は着るものが無い。どんどん時間が経ち、お供は帰って来ない。やきもきしましてね。さあ、どう仕様、どう仕様と、狼狽(うろたえ)てゐる。実はこれが夢なんです。
 このやうな夢を、私がなぜ見たのか、その経緯(いきさつ)を少しお話したい。

 「緇素(しそ)」といふ言葉があります。「緇(し)」といふのは黒いといふことで、「素」は白いといふことです。「緇素を別(わか)つ」などといふ言ひ方をしますが、緇は坊さん、素は在家のことを言ふ。坊さんは黒い物を着て、在家の人は白い物を着てゐる。
 明治までは、殆んどの坊さんが、黒い法衣を着てゐたんです。今でいふ、老師方とか、管長さんクラスの特別の方が黄色い法衣をお召しになって居られ、「黄衣(こうえ)の僧」として尊敬されてきた。
 紫の法衣といふのがありますけれども、紫といふのは、天子様の色であって、庶民の手の届かないところにあった。
 そこで紫の法衣といふのは、天子様が特にすぐれた坊さんに対して、お与へになるものでした。数が非常に限られてゐる。道元禅師は御辞退をなさったけれども、勅命であるといふのでお受けになった。ところが一度も手を通さずに、詩を作って居られる。
 「勅命、重きこと云々」、勅命で戴いたけれども、こんなものを着たら永平寺の猿に笑はれるであらうといふやうな詩です。そして、生涯に一度もお召しにならなかった。
 円覚寺では、開山さん以来、明治の今北洪川老師までは、紫衣の和尚は無かった。私が浄智寺の副住職になりました時に、住持職といふ紫を着てもいゝ位になった。そこで京都の法衣店さんに「紫の法衣を作って欲しい」と申しますと、その店の老主人が、すぐに言はれた。「円覚寺さんは紫、要(い)りませんのや」と。「あんた、何で紫の法衣を作るんだ」と言はんばかりに……。
 ところが今、その「住持職」といふのは、大学を出てから僧堂で三年ほど修行すれば資格が与へられる。そこで、円覚寺派の僧籍にある坊さんの、八割くらいが紫を着る資格を持ってゐる。
 そして、檀家の人々が、うちの葬式には紫を着て格好(かつこう)つけて欲しいと頼むもんですから、お葬式には殆んどが紫の法衣を着用いたします。
 私は在家の出身ですから、お寺へ入ってから金襴の袈裟や、紫や緋の法衣を目にするたびに、どうもおかしいといふ疑問を持ってゐた。内心では苦々(にがにが)しい思ひで、それを見て居りました。

お釈迦さまの原点

 有名な一休さんに、かういふ話があります。
 京都で指折りのお金持が、一休さんに供養を頼んだ。何日に来て、家でお経を読んで欲しいと、お願ひした。そこで一休さん、よしよしと引受けたんですね。
 ところが、茶目気のある一休さんです。その前日の夕方、ぼろぼろの雲水法衣を着て、その金持の商家の前へ立って托鉢をなさった。托鉢の時は、網代笠(あじろがさ)を深くかぶるきまりがあり、顔は見えない。
 使用人たちは、翌日の準備で忙しい時です。そんなところへ立ってゐるんじゃない、早く向ふへ行けとばかりに邪慳(じやけん)にします。表が騒がしいので、そこの主人も出て来て、「そんな乞食坊主、早く追ひ出せ」と言った。それで、一休さんはそのまま、すごすごと帰った。
 次の日、一休さんは立派な法衣を着て、何人かのお供を連れて、その家へおいでになった。すると、主人をはじめ番頭さんたちが表に勢揃ひして、どうぞ奥へお入り下さいと丁重に案内を致します。
 そしたら、一休さんは、「いや、俺は此所でよろしい」とおっしゃる。そして「昨日はたいへん痛いおもてなしを頂いて……」と言った。皆は何のことか、さっぱり判りません。
 「昨日の夕方、坊主が来ただらう。その時、叩き出されたのは、この俺なんじや。お前さんたちが用のあるのは、この綺麗(きれい)な法衣じやらう。そんなに法衣が有難ければ、この法衣にお布施をやってくれ」と言って、その場で法衣を脱いで、家の中に放り込んでお帰りになったといふ逸話がございます。

 山田無文老師といふ方も、寺院の行事がだんだん派手になり、形式化していくことに対して、鋭い批判をなさいました。ある時、かう言はれました。
 「立派な本山があり、管長がゐる。しかし、管長に何ができるのか」「緋の法衣に金襴の袈裟を掛け、儀式に出るだけじゃないか。ぞろぞろ並んでお経を読む。あれでは花魁(おいらん)道中に過ぎん」
 と、かう言はれて物議をかもしました。
 その山田無文老師が妙心寺の管長におなりになった。ご自分は茶色の法衣で通さうとなさったんですけれども、遂にそれを続けることができなかった。そして無理やり紫を着せられてしまった。
 私の師匠は朝比奈宗源老師です。朝比奈老師も、寺の行事に坊さんがぞろぞろ集ることに対しては非常に厳しい批判をなさって居ります。ご自身は止むなく紫を着ていらっしゃいましたけれども、夏用と冬用と、たった一枚だけで、着たきり雀のやうな状態でありました。
 私は、大学では山田無文老師の教へを受け、僧堂へ来てからは朝比奈宗源老師の鉗鎚(けんつい)を受けました。
 「仏教はこのまゝでは滅びてしまう、なんとかしなければいかん。仏教を、お釈迦さまの原点に戻す努力をしよう」といふお二人の老師の熱烈な思ひに接して来た。

 昭和五十五年、私は円覚寺派の管長に就任を致しました。そして、その時からこのお二人の老師方の熱い思ひを受け継いで、何か改めたいと、さういふ気持は持ってゐたのですが、仲々すぐには実行することはできず、内心忸怩(じくじ)たるものがあった。何もできないなあと恥入ってゐました。
 二十年経って、ひとつの、今の言葉でいへば、チャンスが到来した。それは、平成十三年三月の末、天皇・皇后両陛下が、ノルウェー国王夫妻を伴はれ、円覚寺に行幸遊ばすことになりました。
 そこで私は、こゝは私自身の進退を賭(か)けても、一石を投ずる千載一遇の好機である、この時を逸したら、坊さんとして何もしないまゝで一生を終へてしまふ、とまで考へた。
 「墨染(すみぞめ)の黒い法衣こそ、禅坊主の本領である。禅坊主にふさわしい」と考へてゐましたので、本山の係の人たちに対しても、その少し前から、「今度は、私は黒の法衣でお迎へしようと思ふ」と内意を伝へてゐた。
 ところが、その前日になりまして、本山では、やんちゃな管長で困ったなあといふことなんでしよう。協議した結果でせうけれども、宗務総長から「困ります、明日は紫を着て頂きたい」と、かういふ申し入れがありました。
 しかし、こゝで私が譲歩(じようほ)したら、三十年間、雲水に向って仏法を説き、禅を説いて来たことが、全部嘘になってしまふ。反対がありましたけれども、それを押し切って、黒い法衣で両陛下をお迎へしたわけでございます。幸ひに、逮捕もされなかった。
 それで力を得たと言ひますか、平成十四年の元旦から、すべて黒の法衣で通すことにした。持ってゐた紫や茶色の法衣は全部、末寺の僧侶にあげてしまった。
 さうした中、三月の十三日、東京の円覚寺の末寺で五十回忌の法要をしたいといふ。三十三回忌までは不祝儀ですけれども、五十回忌から後はお祝ひになるのです。さういふこともあるものですから、その案内に見えたご住職が、私が黒で出歩いてゐるのを知ってゐますから、「然るべき服装でお越し頂きたい」と、わざわざ言ふ。然るべき服装と、意味深長な挨拶を受けた。
 「俺は紫ないよ」と言ふと、「支度をさせますから」と言ふ。当日は黒い法衣だけを持参した。さうしますと、知客寮(しかりよう)と申しますが、その法要の進行係が新品の紫の法衣を恭(うやうや)しく持って来て、「もしお召し下さるなら仕付(しつけ)をすぐに取らせます」と言ふ。
 そこで私は、「わがまゝ通させてくれよ」と言って、黒で押し通した。それが十三日です。
 次の十四日の早朝、まだ暗い時、床の中で、心臓が締めつけられるやうな痛みを覚えた。てっきり、これは狭心症か心筋梗塞だと思った。「おさらばだ」と感じた。
 門前の懇意な方に、心臓が痛かったといふ話をしたら、知り合ひに心臓専門の先生がいらっしゃるからと、無理矢理に引っ張って行かれた。心電図やレントゲンなども撮ったのですが、どこにも異常がないといふ。心臓そのものには問題はないらしい。
 前の日に、黒い法衣で押し通したものですから、今でいふストレスが、私の心臓を苛(いじ)めたのです。

 さうかうしてゐる内に、五月の十三日に京都の建仁寺の管長さんの晋山式があるといふ案内が来ました。もともと隣りの建長寺においでになってゐた方で、顔見知りですから、是非出席したい、お祝ひに駆けつけたいと思った。ところが、紫の法衣が無い。借りて行くのも癪ですから、まあ、今回は遠慮しようかなあと、弱気を起した。
 そんなときに、末寺の住職をしてゐる弟子が来た。これが心許す弟子といふか、何でもずけずけ言ふ弟子なんです。「いやあ、今度は他流試合だから、京都へ行くの遠慮しようかなあ、葉書に欠席と書いて出そうかなあ」と言ふと、その弟子がかう言った。
 「老師らしくないじゃないの、それじゃたゞの内弁慶だ」。
 厳しいのが居る。それで、よし判ったと、黒い法衣を持って京都へ行った。
 各本山の管長さん方が、みんな紫を着用されてゐるところで、私だけが黒を着た。黒を着ると、一番後へ並ぶといふしきたりなんです。私は他の管長さん方に、お先にどうぞと言った。ところが、管長就任順といふと一番古い。後ろへ並ばしてくれない。東福寺や相国寺の管長さんも居られるのに、どうぞどうぞとおっしゃる。
 いつまでも譲り合って居ても埒(らち)があきませんから、御高齢の南禅寺の管長さんの次に、黒い法衣で並んだ。これで鎌倉も京都も黒の実績ができた、もう大丈夫だと思ってゐたんです。

 さうしましたら暫くして、最初お話した法衣がないといふ夢を見た。夢にうなされたり、心臓に痛みを覚えたり、これほど私を苦しめた法衣の色ですけれども、在家の皆さんにとっては、そんなことは、どうでもいゝことでせう。実際、法衣の色なんかどうでもいゝんです。
 それなのに、紫の法衣から黒い色に代へるという、そんな些細な改革すら、思ひ立っても、仲々実現できないんです。
 紫から黒にといふ色に振り回され、坊さんになってから五十六、七年、管長になって二十五年、迷ひ続けて迎へた古稀でございました。

(足立大進老大師「塵涓抄」より)

(執筆者: tamuzo)

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