“叩いて構わない奴はとことん叩く”空気と、いじめの共通点

“叩いて構わない奴はとことん叩く”空気と、いじめの共通点

この記事はp_shirokuma さんのブログ『シロクマの屑籠』からご寄稿いただきました。

“叩いて構わない奴はとことん叩く”空気と、いじめの共通点

ネットを眺めていてふと気付いた。
 
現在、日本のメディア上では、ネットであれテレビであれ「バッシングを公認されるような過失・落度のある相手は、どれだけ叩いても構わない。その際、相手がどうなるかは配慮しなくて構わない。それが社会だ」という風景がリピート再生されている。なにか不祥事や事故があったら、法的責任が問われるだけでなく、責任者は罵倒され、土下座させられる。法的責任を追求するのとは別に、“感情を納得させる”ために罵倒すること・土下座させることを、社会正義とみなすような空気ができあがっている。もちろん、そうした罵倒や土下座に警察が口出しをすることはないし、マスメディアも何食わぬ顔で報道する*1。バッシングが公認される大義名分がある限り、責任者が唾を吐きかけられてもしようがないよねー、という不文律ができているらしい。

*1:罵倒や土下座強要は、被害届を受理するほどのものではないし、仮に、それで誰かがうつ病になったようにみえても、「因果関係は不明」なのだから
 
インターネット上での“炎上”も似ている。失言・過失・違法行為があったと判明した相手に対しては情け容赦が無い。叩かれるに値する大義名分を背負った相手なら、罵倒も、嘲笑も、プライベートの暴露もやって構わない、という空気がネットにはすっかり出来上がっている。そのようなバッシングは、ときには世直し気分さえ伴って行われている。
 
バッシングされる大義名分を背負った人間は、法的責任を追及されるだけでなく、罵倒しても構わないし、土下座させても構わない」というのが、どうやら21世紀のオトナ世界のコンセンサスらしいのだ。無慈悲であり、不寛容であり、あまり上品でもない不文律だが、とにかく、オトナの世界はそんな風に回っている。
 

オトナ世界の不文律と、「いじめ」との共通点

で、そんなオトナ世界をずっと眺めながら、子ども達は育っていくわけだ。
 
子ども達は学習能力に優れているので、社会の規範意識をしっかり把握して、正確にインストールしながら成長していくだろう。
 
 ・叩いてOKと公認された相手は、罵倒しても土下座させても構わない。
 ・警察が介入しない範囲なら、過失・落度のあった者をリンチして構わない。
 ・いったん悪者認定された相手に慈悲をかける必要は無い。
 ・叩かれた相手が後でうつ病になるかどうかなんて考える必要は無い。

 
どれも、オトナがやっていることであり、テレビやネットを通して日常的に観察される風景だから、子どもがそれを模倣・内面化しないわけがない。上記のようなジャスティスは、大人から子どもへと引き継がれていく。そして子ども自身の手によって実行されていく。
 
すべてのいじめがこうだとは思わないが、多くのいじめには、こうした無慈悲な規範意識が潜んでいるのではないのか。
 
もちろん子どもの場合、こうした身振りはオトナほど洗練されていないし、様式化されてもいない。だからボロが出ることもあるし、ヒートアップし過ぎて相手を怪我させたり自殺させたりするかもしれない。とはいえ、相手が不登校や胃潰瘍になる程度なら“因果関係は不明”で警察がしゃしゃり出てくることも無いので、オトナ世界の正義感とそんなに違わないよねー、ということになってしまいそうである――少なくとも当人達の主観レベルでは。
 
この視点から眺めると、子どものいじめは「バッシングして構わない大義名分さえあれば徹底的に叩いて構わない。それが社会だ」の劣化コピー版、のように見える。少なくとも、オトナ社会の劣化コピーと呼ぶにふさわしいいじめは存在するだろう。「こいつは迷惑なやつ」「こいつは落ち度のあるやつ」といったバッシングの理由は幼稚かもしれないが、背景に潜む倫理感覚・道徳感覚のロジックには、現代のオトナ社会に共通するものがあるようにみえる。
 
そして、あえて意地悪な見方をするなら、これから社会に出て行く予行練習として、子どもはいじめにまつわる諸現象を体験する、とさえ言えるかもしれない。いじめられて再起不能になった犠牲者を除いて、いじめの現場に立ち会った全員は、バッシングをどう回避すれば良いのか・どういう時なら安全にバッシングできるのかを身近な問題として学習するだろう。ひどい話だが、なかにはいじめを主導することによって、さらに狡猾で、さらに無慈悲で、さらに安全にいじめる手法を身につけて社会人になる人すらいるかもしれない*2。そして、そのような子ども達がオトナになり、次の世代の子ども達の規範意識・倫理感覚のインストール元になっていく。

*2:「いじめた張本人」として処罰されるほどのレベルまで「事例化」するのは、全体のなかの少数であり、ある面では、事態のコントロールに失敗するぐらいには不器用ないじめっ子である点にも注意
 

いじめを減らしたいなら、まずオトナが慈悲深くなるべきでは

以上を踏まえると、いじめを減らすための長期戦略のひとつとして、オトナ達の規範意識・倫理感覚・身振りを変えていくことが重要に思えてくる。“バッシングして構わない過失や落度のある相手なら、どれだけ叩いても構わない”という社会的コンセンサスをなくすか、せめて緩和する必要があるのではないか。
 
だから、オトナ達が子どもに向かって口で注意する前に、まず、オトナ達自身が、慈悲深い身振りを実践してみせる必要がある。そして落ち度や迷惑のあった相手をバッシングしすぎないよう、心がける必要がある。長い目で見れば、これが一番有効なのではないか。
 
オトナ達の、「大義名分さえあれば、無慈悲にブッ叩いて構わない」という後姿を見ている限り、子ども達は「いじめは良くない」ではなく「大義名分の立たないいじめは良くない」「大義名分が立つなら、とことん叩いて構わない」のほうをインストールしてしまうだろう。それではダメなので、落ち度のあった人・迷惑のあった人に対しても最低限の慈悲・寛容・礼節をもって接する後姿をこそ、子ども達には見せるべきではないか。年長者が手本を示せないようでは、子どもがついてこない。
 
もちろんこれは、とても難しい課題だと思う。私自身、どこまでできるかわからない。だが、このような無慈悲の悪循環はどこかで断ち切らなければならないし、そのためにも、各人が心のブレーキをできるだけ意識しておく必要があると思う。もし、現代のオトナ達にそのような努力が出来ないとしたら……。
 

追記

説明不足なところがあったかと思ったので、ちょっと補足。いじめられている子どもが必ず落度・過失があるとは私も到底思っていません。ただし、いじめている側からすれば、そのいじめるという行為に、なにかしらの大義名分というか、ゴーサインのリミッターをoffにするプロセスがあるんじゃないかと私は思ったのです。そのリミッターをoffにするプロセスには、それなり、大人の後姿を参照しているところもある筈でしょう。私は、その可能性を遺憾に思い、年長者の一人として、これからは気をつけていかなければならないなと思いました。

執筆: この記事はp_shirokuma さんのブログ『シロクマの屑籠』からご寄稿いただきました。

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