質問に対して「善意」を与える人たち

質問に対して「善意」を与える人たち

今回はnakamurabashiさんのブログ『G.A.W.』からご寄稿いただきました。

質問に対して「善意」を与える人たち

コンビニってーのはどういう業態かというと「生活に必要な最低限のものをだいたい一式揃えてる店」ということになる。まあほかにも長時間営業とかいろいろ定義はあるけど、だいたいそんなとこだと思っといてください。

つってもまあ「最低限」なんで、コンビニしかない状態で高級ワインを片手に都会の夜を見下ろしながら「君の瞳に乾杯」とかいう生活はあんまりできない。その「限界」というものを、ヘビーユーザーほどよく知っている。諸事につけ「ま、コンビニでいっか」というのが基本的な感覚だと思う。

ところでこの感覚というのは「物心ついたころにはコンビニがあった」世代以下のものだ。例外はたくさんあれど、大雑把に括るとそうなる。じゃあそれ「以上」の層はどうか。きょうびコンビニも高齢者に対応すべくいろいろやってるらしい。ま、それで助かってる部分も多々あるが、それでも現状のコンビニは高齢者の需要には応えられていないと思う。

さて、んじゃ高齢者はコンビニになにを求めているのか。

これねー「なんでもできる」こと。

なんでもってなにかっていうと、なんでも。とにかくコンビニなんでもできんの。コンビニにないものないし、できないことないの。

なんでそんなことになるかというと、高齢者って視野が狭いから。これは高齢だからとかそういうこと以前に「コンビニ」っていう業態になじみがないからなんだと思う。つまりね、なんか町に新しい店ができたわけ。行ってみると、なんかやたらにたくさん商品がある。さて自分はこれが欲しい。聞いてみるとたいていある。これはひょっとして便利なんじゃないか。おう、食い物もあるじゃないか。じゃあカミソリはどうだね。あるある。なに、コピー? コピーもできるのか。こいつはとんでもないことになった。

しかし、コンビニの品揃えと、高齢者の実際の生活で必要となるもののあいだには、乖離がある。これは、コンビニのメインターゲットが二十代や三十代の男性である以上どうしようもないことだ。一口に「生活に必要なもの一式」っつったって、独身男性と老夫婦のそれではまったく違うわけだ。そこを埋めようと、いま各チェーンは努力している。その努力はよくわかるんだが……一度「欲しいものがある」という体験をしてしまった年寄りはなかなかに頑固だ。こんなにたくさんあるんだから、なんでもできるだろう、一足飛びに思考がそこまで行く。

こうして、紅差し筆はないかとか、シュークリームの中身のクリームだけ売ってくれないかパンにつけて食うからとか、クリーニングはやってないのかとか、電気料金の督促が来たんでどうしたらいいんだとか、多種多様な要望が店には寄せられる。

これ、ひとつには品揃えの問題なんだけど、もうひとつはシステム的な問題だったりする。順番にレジに並ぶことができなくて、売場で金払おうとするじーさんとか、まあ収納代行でもそうだよね。「コンビニに行けば払える」っていうことになるから、払込用紙なんか持ってこなかったりもする。おじいちゃん、バーコードのある紙がないとできないのよ、おうそのバーコードってのはなんだい、それはねこういうものなのよ、おう、それ捨てちまったい。捨てんなよ。

見りゃわかることだ。だってレジでバーコード入力してんだから。ただそれを「見て」わかるのは一定以下の世代であり、年寄りにそれは通じない。つまりコンビニを便利に使うのにも、それ相応の知識ってのは必要だったりして、それが年寄りには欠落してることがある。

で、どうなるかっていうと、すんげえ数の質問が発生する。年寄り客の数だけ質問があるといっていい。うちの店は高齢者率高いよってのは過去のエントリでも何度か書いたが、これがもう、ほんっとに多い。

今回のテーマは「質問に答えること」なわけだ。

まあ年寄りに限らず、コンビニで人はけっこう質問する。

これ、教えるのいちばん難しい部分なんじゃないかと思う。知識を与えるのは簡単。教えりゃいい。覚えられなかったらもう一回教えりゃいい。覚えてね、と。そんだけ。機器の使いかただとか、商品知識だとか、まあいろいろあるけど、覚えて、自分で使えればいいわけだ。質疑応答のパターンなんかもいくつか教える。

だけどねえ、質問って「わからない」からするんだよね。コピー機なんかが典型なんだけど、多くの場合って、使いかたがわからないのはもちろんなんだけど、わからない人の説明って「つまりあんたはなにをしたいの?」という部分がわからない。お客さんはコピーしたいって思って店に来る。質問をする人って、コピー機に「なにができるのか」がわかんなかったりする。コピーっつーんだから複写できんだろくらいの勢いで来る。

そんで「文字だけ大きくして、絵は小さくしてくれ」とか、あるいはホチキスで簡単に製本したものとか持ってきて「これごと同じようにコピーしてくれ」ということになる。そこには「実際にはできないこと」っていうのが混じってる。

なにごとにつけそうなんだけど「できること」と「できないこと」を知らない人の質問って、どこからどう来るのか予測つかない。「人間が」「飛行機に乗って」「物資を投下した」っていう背後の体系がわからんと、ジョン・フラムが物資恵んでくれるみたいな解釈になる。そんで年寄りは「ジョン・フラムはここにはいないのか」みたいな感じで店にやってくるわけだ。いねえよ(このへん、わかってなお信仰は持続するっていうのはとりあえずスルーで)。

この状況で、質問に答えるというのは、具体的にどういう行為のことを意味するか。

まず第一は「相手がなにを望んでいるのか」を聞き取ること。上の例でいうと、実は客が求めてるのはジョン・フラムじゃない。個別具体的な、たとえば腹が減ったので米のメシが食いたいとか、髭を剃るシェービングクリームがないとか、まあそんなような。わからないってのは、自分の要求を明確に説明できない状態だ、ということだ。このへん、註文住宅を作るときの施主と建築士の関係に似ているかもしれない。施主には建築に関する知識はない。にもかかわらず「こうしたい」というぼんやりとしたイメージはある。そのイメージはときに現実的ではないかもしれず、それで建築士は、その家族の生活とかについて質問して「具体的にどう暮らしているのか」ということを把握するところから始めたりするわけだ。よく知らんけど。たぶんそういうもんだよね。

混乱した客の質問から、まずは「このコンビニのシステムを利用してなにをしたいのか」を探る。その要望がわかったら、今度は店員が自分の持っている知識、店の機器、そういったものを使ってできる対応を模索する。とうぜんその回答としては「うちではできない」というものも含まれる。ある日41歳のおっさんが身長145センチくらいで小柄で元気がよくてロリ声の店員さんに一目惚れして「俺の妹になってくれ!」と言ってもその要望には店は答えられない。客の要望が「じゃあ九鳳院さんちの紫ちゃんでいいからジャンプSQ買う」というところまで折れれば対応できる。ごめん、ちょっと妹じゃなかった。原作の続きいつ出んの。

ちょっとたとえがアレすぎてわかりづらくなったが、質問に対する回答をする、というのは上述のような手順を踏む、はずだ。

ところで、質問に対してうまく回答できない人というのがいる。客が「わからない」と質問したときに、その「わからない」を解決しようとするタイプだ。上で挙げた小冊子をそのままコピーしてくれってのは実際に最近あった例。冷静に考えれば「コピーして製本しなおす」以外に選択肢はない。そんなことは答える側にもわかりきっているのだが「これをまるごとそっくりコピーしたいんだ」という客のセリフに囚われて、それをそっくりそのまま解決しようとするわけだ。「わからない」という客の感情に同調してしまった状態といえる。

このタイプに「質問に答える」ことを教えるのは相当に難しい。まあ場数が解決する問題ではあるんだけど、本質的に「質問に対する回答」という構造を理解していないものだから、局面が変わるとすぐに店長である俺や、その他ベテランのアルバイトに質問が行く。客の代理にしかなってないわけだ。んで「つまりそれ、こういうことでしょ?」って説明してやると「ああ!」と納得して説明しにいく。次から、同じケースには対処できるが、客の質問のしかたが変わるともう対処できない。「わからない」のありかたが人によって違うからだ。

なんでこんなことになっちまうのか。

俺は考えました。

そんで、それらの人たちに共通することがあるのに気づいた。それらの人たちには、あるセリフが言えない。

「できません」

これです。これが言えない。

なんで言えないのかっていうと、善意があるから。まず最初に「なんとかしてあげなくちゃいけない」って考える。「なにができるか」ではなく「なんとかしなくちゃ」なんである。「なんとか」ってなんだ。それは客が「わからん」って言ってる状態を「わかる」ようにしてあげなくちゃいけないということだ。

やー、それ無理でしょ。人によって理解のポイントって違うから、わかるようにしてあげるためにどこまで掘り下げてやればいいのかがまずわからない。そこんとこじっくりつきあってたら、キリない。仕事における質問と回答は「さしあたって目の前の事態をどうするのか」というとこに最大の力点が置かれる。置かれるべき。効率の問題があるから。一人の単価が何十万とかになる商売なら話は別だけど。

つまり、これらの人たちには、善意はあるけど「現実的な最適解」はない。そういうことなんじゃないかと思った。

別に善意があるのは悪いことじゃない。善だしな。悪くない。ただこれって、彼我の前提が同じでないと成立しない。土俵が同じでないと善意は通じない。相手は客で、こっちは店員だ。そりゃ誠実さのカケラもない対応をしちゃったらどうじようもないけど、本質的に客が求めてるのは「結果」だ。その結果に対する誠実さは必要だろう。場合によっては「できない」と断ることが誠実さだったりもする。

もひとつ、善意の国の人は、客のことを「お客様」だと思ってる。や、お客様には違いないんだけど、お客様の言うことを絶対だと思ってもらっては困る。だって、相手がまちがってるかもしれないんだから。まちがってる前提に対して善意で当たってもなにも結果は出ない。むしろ怒り出す可能性すらある。「さんざん時間かかってなんにもできない」っていうオチが待ってる可能性があるから。

現実的な最適解っていうのは、自分と相手を客観視するところから始まる。相手の言うことを鵜呑みにしてはいけないし、こちらの手持ちの戦力も把握しておかなきゃいけない。これがうまく機能しないと「善意の店員が」「お客様の言うことを絶対視する」ということになって、結果、なんにも解決できなくなる。

そんでどうやって解決したらいいのか。

それがわかってりゃ簡単なんだけどねえ。もう考える必要もないし、このエントリの書きかたも変わってたと思う。

まあ、有効とおぼしき手がないわけじゃない。

俺はよく「客の質問はすべてクレームだと思え」という言いかたをアルバイトに対してする。なぜかっていうと、客は本来、なにも考えずに店に入ってきて、なにも考えずに欲しいものを見つけ、適切な接客を受けて帰っていくのが「あたりまえ」のものだからだ。商品の場所がわからないのは「すべて」店の落ち度。コピー機だって本来はセルフサービスのもので、だとしたら「すべての」客がセルフでできなきゃいけないのに、現実的にはそうではない。ならばそれは店の落ち度だ。だから、どうあっても解決しなければならない。クレームなんだから。解決しないと大変なことになる。

この言いかたはけっこう有効だ。極論すぎてアレだし、今度は店員が萎縮するっていう副作用があるから、あまり使いたくないんだけど。

ただこれもねー「お客様のことをそんなふうに思うなんて」っていう「お客様思想」にブロックされたりもする。そういう考えかたをする俺が邪悪な人間だ、というわけだ。

つってもなあ、世のなか善意で回ってるわけじゃないし。なんかこう、でっけえシステムの末端に我々の生活ってのも存在してたりするわけで、そういうのもう自分たちの生活と切り離せるもんじゃない。そういうものに乗っかって生活している以上、それに従うしかないってこともあるわけで。

で、そうじゃない部分では善意って充分に有効じゃん。だって善意の国の人たちって、たいてい接客はすごく感じがいいんだもの。切り分け……らんないんだろうなあ……全体が見えないってそういうことなんだろうし。

執筆: この記事はnakamurabashiさんのブログ『G.A.W.』からご寄稿いただきました。

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