〈ぐるフェス〉に集うさまざまな人生〜中澤日菜子『お願いおむらいす』
食の記憶が思い出と密接に結びついていることは多い。オムライスに関して言うなら、今となっては祖母が作ってくれたものが懐かしい。実はとびきりおいしいというものではなかったのだが(祖母は決して料理下手ではなかったけれども、玉ねぎを根気よく炒める根気には欠けていたように思う。カレーなども玉ねぎが生っぽいのがネックだった)。しかし家庭料理というものは、孫に「子どもが喜ぶような食べ物を作ってやりたい」という気持ちがあればそれで十分ともいえるのではないか。
連作短編集である本書においても、食べ物は重要なキーワードとなる(「お願いおむらいす」というフレーズ自体は歌のタイトルなのだけれど)。主な舞台となるのは、〈ぐるめフェスタ〉(通称〈ぐるフェス〉)。春と秋の年2回、東京郊外の公園で開催される「あらゆる食のお祭り」のことだ。収録された5つの短編の主人公たちは、イベントの主催者側の社員たちや出店者、ステージに立つアイドルに来場者。彼らの人生はまさにさまざま。そして実際には、このイベントに集まっているだけでももっともっとたくさんの人々がいて、それぞれの人生を生きているのだ。シンプルに「おいしいものを食べたい」と思って来た人が圧倒的多数だとしても、「仕事がんばらなきゃ」と思うスタッフもいるし、人間というものはほぼ全員に何らかの悩みや心配事がもれなくついてくる。中には疲れ果てて、〈ぐるフェス〉の会場にいながらも食べ物になんて1mmも心が動かないというような人もいるかもしれない。だけど、こんなにも多くの人が「たいへんなこともあるけど、おいしいものでも食べて元気出そう」と思っているのだとしたら、自分でも「もうちょっとやれるかな」と感じられるかも。
私が個人的に最も印象に残ったのは、最終話の「フチモチの唄」。主人公の中村浩は、ほぼ40年にわたって中堅の家電メーカーに勤めていたが、早期退職勧告を受け入れて現在はアルバイト生活に。52歳の妻と大学受験を控えた娘、そして3年前にひとり暮らしの身を心配して引き取った実母と同居している。そして、その実母はこの2年ほどで物忘れがひどくなり徘徊するようになった。私ごとだが、私の母も亡くなる前の数年間は認知症かつガン患者として生活していた。最初は物忘れ、次に徘徊、そしてその後にきたのはその気力すら失われた無気力ぶり。父親が亡くなったときはくも膜下出血で突然の別れとなってしまったため、余命がわかるような病気であればこちらも心の準備ができるのではないかと思っていた。しかし、親の死は親の死で、余命がわかっていようがいまいがつらさに変わりなどなかった。浩の母・キクにもガンが見つかり、医師から「余命3か月」と告げられる。「家に帰りたい」と口にし続けるキクだったが、しかしその「家」がどこのことなのかがわからない。浩はなんとか母の希望を叶えたいと考え…。
私の母も祖母も帰らぬ人になってしまった。亡くなる前にもっと自分にもできることがあったのではないかというのは、浩の行動をみて心にくすぶり続ける後悔である。母や祖母がもはや治療の苦しみや物忘れの歯がゆさなどとは無縁の場所に行けたことはせめてもの救いだ。でももう好物のしいたけも大福も私に作ってくれたようなオムライスも食べることはできない。私はまだまま悩み多き世の中を生きている。けれど、おいしいものを食べて「充電完了!」と気合いをいれることができる。本書はたとえ苦労は多くても命あることのありがたみを思い出させてくれる一冊だった。こっちでもうちょっとがんばってみるねと、心の中で母や祖母に(もちろん父にも)話しかけてみる。
(松井ゆかり)
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