「知る」喜びに満ちた音楽ミステリー〜藤谷治『綾峰音楽堂殺人事件』
本を読む醍醐味を何に求めるかはさまざまだと思うが、「知らなかったことを知る」を重視する人は多いだろう。本書においても、「知る」喜びは十二分に味わえる。大学教授や作家や音楽家や地方の名士といった登場人物たちの鬱屈を「知る」、クラシック音楽の素晴らしさを「知る」、地方行政あるいは市民運動の仕組みや問題点を「知る」…。そしてもちろん、謎に包まれた事件の真相を「知る」。
本書はのっけからミステリアスだ(タイトルに『殺人事件』と銘打たれているからには、謎が存在するのは当然のことだが)。冒頭で「著者」が、「綾峰音楽堂殺人事件」について小説の手法を使って報告書を書き記したと述べている。ワトソン医師がホームズ探偵が関わった事件の記述者であることの表明のようなものかなと思いつつ、この「はじめに」で書かれる部分を読んだだけでは「この著者っていうのは誰?」「綾峰音楽堂殺人事件って何?」といった疑問が心に刻まれるばかり。とにかく討木穣太郎なる人物が謎めいている。事件の迅速な解決に貢献したとされているが、どういった立場・職業の人間なのか、「著者」(10ページ近く後で、小説家・フジツボムサオであることがわかる)とはどのような関係なのか、意味不明に思われる行動の真意は何なのか、などなど。読者の興味を釘付けにしながら、少しずつ答が明かされていく。
不穏な空気が漂う中、「綾峰音楽堂殺人事件」が発生してしまう。果たしてどこまで討木氏が狙っていたかわからないが、このときフジツボ氏が居合わせたことは重要なポイントだった。登場人物たちの人間関係や事件の背景にあった人々の思惑、綾峰県立音楽堂や綾峰フィルハーモニー管弦楽団に関する問題などについてはこの時点でほぼ何も知らなかったフジツボ氏が、「いささか変則的ながら、まず事件を私の見たままに報告し、そこで目撃談を中断して、のちに私が調べた事件の背景を、時間を戻し、小説風に描くという形にし」てくれた。おかげで読者は自分たちと近い立場にいる人物の目線で、この謎に満ちた事件の詳細を追っていくことが可能になり、そのうえで真相を「知る」ことができたのだ。果たして、改築が決まった綾峰音楽堂の(さらには綾峰フィルにとっても、と目されている)最終公演の場で、いったい何があったのか…?
この物語において最も丁寧に人物像が描写されるのは、探偵役の討木氏でもワトソン的語り手のフジツボ氏でも犯人でもなく、殺された人間である。その人物がどのような環境で育ち、どのような行動に及び、それはどのような考えに基づくものであったか(これについては、フジツボ氏の主観なり印象なりが含まれているのは致し方ないとして)が、細やかに読者に伝えられる。亡くなった人物が、非常に近しく感じられるのだ(好ましい人物かどうかはまた別の話として)。その人となりをよく知っているような気がするのに、その人物はすでにいない。事件の謎と相俟って、ある種酩酊したような気分を味わうことになるかも。
本書は優れた音楽小説でもある。(フジツボ氏ではなく現実の)著者である藤谷さんは、ご自分でもチェロを演奏されるし、本書の他にも『船に乗れ!』などの音楽を題材にした小説も書かれている。私自身長らくクラシックとは無縁の人生を歩んでいたのだが、最近ほんとうに少しばかり楽しめるようになってきた。討木氏曰く、「地域のオーケストラというのは、いってみれば図書館みたいなものですよ。図書館は儲からない。けれど存在価値があると、多くの人から認められている。(中略)綾峰フィルだって、音楽に関心のない、五秒で寝てしまう人のためにも演奏しているんです。人生のいつかどこかで、図書館を利用することになるかもしれない。ふっと思い立って、クラシック音楽を聴いてみる気になるかもしれない。その時のために綾峰フィルは、腕を磨いて待っているんです」と。本だって同じだ。ふっと思い立って読んでみる気になった人のためにも、藤谷作品はそこにある。
(松井ゆかり)
■関連記事
【今週はこれを読め! エンタメ編】フレッシュな執筆陣のアンソロジー『行きたくない』
【今週はこれを読め! エンタメ編】ホッパーの絵の豊かな表情を映す『短編画廊 絵から生まれた17の物語』
【今週はこれを読め! エンタメ編】逆境に立ち向かう75歳正子の奮闘記〜柚木麻子『マジカルグランマ』
- ガジェット通信編集部への情報提供はこちら
- 記事内の筆者見解は明示のない限りガジェット通信を代表するものではありません。