実体と魔物に分かれたひとり。止められない戦争をいかに生きるか?
上田早夕里は小松左京の名を冠した公募新人賞からデビュー、その受賞経歴にふさわしく、人類史的スケールの視座から、しかしいっぽうで地に生きる個人の意志や情動を取りこぼさずに描く、骨太の作品を送りだして、読者の注目を集めてきた。そのいっぽう、《妖怪探偵・百目》や《洋菓子》など、別の領域の作品でも一定の評価を得ている。きわめて懐の深いクリエーターといえるだろう。
新作長篇『リラと戦禍の風』は、この作家の才能の広がりをまざまざと示す傑作だ。上田さんは、小松左京賞ではなく、日本ファンタジーノベル大賞からでもデビューできただろう。同書は定型的なファンタジー小説ではなく、ファンタスティックな要素や形態を備え、なおかつ文芸として新鮮な作品が評価される。本書はその要件を、きわめて高いレベルで満たしている。
物語のはじまりは戦場だ。欧州戦争のさなか、西部戦線のドイツ軍側の塹壕に主人公イェルク・ヒューバーはいる。徴兵されるまでは、ヘッセン南部の小さな街で、父が営む床屋を手伝っていた。それがいまは狂気の戦場だ。自分がしだいに壊れていく感覚があった。ひとは戦場で相手を殺した瞬間、自分をも殺している。
そして、ついに譬喩的な死ではなく、肉体的な死が迫ってくる。砲弾が近くで炸裂したのだ。自分が死ぬとわかったとき、イェルクは少しだけ安堵する。もう戦わなくていいのだ。
しかし、彼にとっての戦いはこれが終わりではなかった。あわやというとき、突如あらわれた、上品な身なりの—-戦場にはおよそふさわしくない—-紳士が、イェルクの額に指先をあてたとたんに、意識が飛んだ。
気づくと、そこは居心地のよい部屋だった。上品な紳士はゲオルゲ・シルヴェストリ伯爵と名乗り、イェルクのいまの身体は本来の彼の身体ではなく、もとの肉体から精神の半分を引っこ抜いて【虚体/きょたい】に焼きつけたものなのだと説明する。精神の残りの半分は、本来の肉体(実体)に残っていて、元どおりの戦場にいる。そちらの身体は、怪我こそ負ったものの、生命を取りとめたという。
かくして、イェルクは分身人生を送るはめになった。意識は別々に分かれているものの、つながりは維持されている。互いが経験したことは、もうひとつの身体へと転送されるのだ。ただし、相手の経験は、自分にとっては夢のように感じられる。だから、意識が混乱することはない。
虚体となったイェルクは、伯爵の命でリラという少女を護衛することになる。しかし、当のリラはイェルクに心を開かない。ドイツ人は嫌いだという。リラはポーランド人で、ドイツは自分の国を滅ぼした征服者だ。イェルクにはその話がピンとこない。リラがいっているのは、百年以上も前の第三次ポーランド分割のことだからだ。蹂躙した側は忘れても、蹂躙された側はいつまでも忘れない。それが歴史の常である。
シルヴェストリ伯爵も、そうした歴史に翻弄された身の上だ。彼の祖国はワラキア。オスマン帝国に抵抗して激しく戦った国だ。もっとも、その戦いは十五世紀半ばのことである。四百五十年前だ。リラはあくまで伝え聞いたことからドイツを憎んでいたのだが、伯爵の複雑な心情は実体験に基づく。彼はかつて、ワラキア公ヴラド三世に仕え、数多の戦いに参加した。そして、ある事情から不死者となったのだ。そのときヴラド公の血を受けついだ。
幻想文学の読者なら、ヴラド公と言われればピンと来るだろう。串刺し公と怖れられ、ブラム・ストーカーがドラキュラのモデルにした人物である。しかし、『リラと戦禍の風』はストーカー作品に寄せるのではなく、あくまで史実のほうを下敷きにしている。現実に忠実とかそういうことではなく、これはフィクションを立脚させる土台のとりかたである。この作品は、簡単に割りきれない国家のありかたや民族の問題に、ごまかしなく向きあっている。
ほかにも、出自による葛藤を抱えている人物が何人か登場する。たとえば、人狼のミロシュ。彼は、欧州戦争がはじまるずっと前から、セルビア人として、オスマン帝国と戦ってきた。ふつう魔物は、人間同士の戦いなどどっちがどうなろうと知ったことではないが、ミロシュは人間に育てられた恩義があるのだ。
このように、どの人物もたんに物語上に都合で設定されているのではなく、背負っている背景がしっかりとあって、それが作品にキメ細かい陰翳を与えている。
さて、虚体となり、さまざまな場所へ気づかれずに出入りできるようになったイェルクは、実体だったころよりも広い視野で、戦争がもたらす悲惨、銃後の社会の疲弊、そして複雑な民族問題を考えるようになる。
伯爵に与えられたリラを護衛する役割だけならば、いまの虚体のままでなんとかなるだろう。しかし、故郷ドイツのひとびとが陥っている深刻な食糧難を、わずかばかりでも好転させようとするなら、虚体のままでは力が足りない。イェルクは、いっそ本物の魔物になってやろうと考えはじめる。魔物になるもっとも簡単な方法は、魔物の血を継ぐことだ。イェルクにとって身近な魔物は伯爵だ。
伯爵は最初、イェルクに考えを改めたほうが良いと忠告するが、彼の覚悟が固いとわかり、自分の血を与えることを承知する。ただし、伯爵の血のなかにはヴラド公から受けついだものが混じっている。その血が、やがてイェルクに熱狂を強要する。見境のない情熱で、イェルクを焼き尽くすだろう。自分の意志で、その熱狂を抑えこまなければならない。伯爵はそう言って釘を差した。
皮肉なことに、ヴラド公の影響が濃く出たのは、虚体のイェルクではなく、実体のイェルクだった。虚体はたえず自省し感情が行きすぎないようして注意していたが、実体はそういう防備が薄かった。また、戦場という異常な状況に長く晒されていたことも、意識が先鋭化する要因となった。そこに拍車をかけたのが、魔物ニルである。
ニルは無の魔物だ。無にもっとも価値を置き、知識や権力によって無に抗う者を嗤う。ニルは、こう言って実体のイェルクを唆す。
「革命は戦争よりも面白いぞ。やる気があるなら、立ちあがれ」
おりしもドイツ国内で、皇帝ヴィルヘルム二世を倒して、新体制を築こうと目論む社会主義者の勢力が台頭をはじめていた。実体のイェルクはこれに同調していく。
いっぽう、魔物になったイェルクはその能力を活かし、中央同盟国(祖国ドイツはこちら側だ)の情報を連合国へ売り、連合国の情報を中央同盟国に売って、金を得ていた。この金はドイツの市民に食料を届けるために使う。もう戦争など、どっちが勝とうが負けようがどうでもいい。そんな国家の事情など、毎日を必死で暮らすひとびとにはもはや関係のないことだ。
そもそも、いま戦われている戦争は、かつての戦争とは本質が異なる。止めようとしても止まらない。そいつを倒せばすべて解決するような、わかりやすい敵などどこにもいない。
このシビアな戦争観が『リラと戦禍の風』全篇に重く垂れこめている。一般的な歴史では、第一次世界大戦は1918年11月に終結したとされる。しかし、この作品では、それはかりそめのももので、戦争の炎はただ潜伏しただけで、やがて第二次大戦として吹きあがる。流れはひと連なりなのだ。
もちろん、第二次大戦後もそうした状況が変わったわけではない。私たちはずっと戦争を生きており、局面ごとに敵と見えている相手がいるにしても、その敵を倒すことで事態は解決しないのだ。
その止められない戦争のなかで、個人がどう生きうるか。明快な答はおそらくない。ただ、この作品で実体のイェルクと魔物のイェルクが分裂しながら相互に影響している。そんなありかたで、私たちも人生と向きあっていくのだ。
(牧眞司)
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