大阪が舞台のほろ苦い短編集〜藤野恵美『淀川八景』
残念ながら大阪という土地にはあまりなじみがない。大阪を訪れたのは、まだ幼稚園児だった頃に叔父の家に泊まったときと5年ほど前にUSJに行ったとき。50年少々に及ぶ人生で2回のみだ。大都市であるし何かと話題になることも多いので情報としては大阪についていろいろ知っている気がするが、実際はほぼ無知といえるレベルではないか。そもそも淀川がどのあたりを流れているかも知らない。「淀川」と聞いたら、映画評論家の故淀川長治氏が先に思い浮かぶくらいだし。
いまちょっと調べてみたら、淀川は琵琶湖から流れ出る唯一の川なのだそうだ。瀬田川→宇治川→淀川と名前を変えながら最終的に大阪湾に流れ込むとのこと。というわけで地図も見てみたが、土地勘がないのでたぶんいまひとつピンときてはいない。そんな身で知ったような口を聞くのも憚られるが、周辺に住む人々にとって淀川は自然に風景の一部になっていることと思う。川というものはある意味恐い。子どもの頃かなり大きな川の近くに住んでいたときには、子どもだけで水に入るなと親からもきつく注意されていたし、大人と一緒のときでも川岸からはあまり離れる気にならなかった。とはいえ、常に流れているため清冽なイメージがあり(必ずしもそうでない川もあるが)、ひとところに留まらず流れていく川を眺めるのを楽しみと感じる人は多いに違いない。
『淀川八景』というタイトル通り、本書には登場人物たちとともに川が描かれる物語が8編収められている。いずれも30ページ程度の短編だが、一筋縄ではいかない作品が揃っている。手放しで「めでたしめでたし」といえるものはないといっていいし、この結末には希望が持てそうだなという予感とも遠い作品もある。ほんわかしているようにみえて実は苦みをしのばせた作風は、藤野作品の魅力のひとつ。特に胸が痛んだのは「婚活バーベキュー」。婚活に励む30代前半のOLが主人公だ。「もう少し肩の力を抜いて」と声をかけたい気持ちになるが、3人の子持ち既婚者の言葉などきっと彼女は必要としていないだろう。彼女の婚活の動機が、亡くなった父と老いが忍び寄る母に結びついたものであることに胸が締めつけられる思いがする。今日とは違う明日が待っている可能性を、強く願わずにいられない。反対にとても元気づけられたのが「趣味は映画」。主人公は、東京から大阪に引っ越してきた男子高校生。転校初日の自己紹介で「趣味は映画鑑賞です」と言ってしまったばかりに、監督として映画の自主制作に励む前田ひかりに目をつけられてしまったのだ。彼はなし崩し的に映画の主演をさせられることになり、前田に振り回され続ける日々が始まった。のみならず、前田は監督としてとんでもない要求を…。いや、痛快痛快! 結局問題は何も解決していない気がするけど、新たなるステージ(?)に進んだ彼の未来に幸あれ。
川の水が後戻りすることはない(いや、アマゾン川で発生するポロロッカは戻っているといえるのかもしれないが。ちなみに「ポロロッカ」という短編も収録されている)。しかし、その水はここではないどこかへ進んでいく。その先にはそれまで見たことのない景色が見えるだろう。まるで人間の心情のようではないか。一度移ろってしまった気持ちや傷ついた過去はなかったことにはできない。それでも生きていれば、他者やできごとに対してまた違った受け止め方ができるようになるはずだ。主人公たちの心に、そして現状につらさや苦しさを感じている我々読者の心に、新しい光が射し込むことを祈っている。
(松井ゆかり)
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