斎藤工インタビュー『麻雀放浪記2020』~「摩擦をおそれず、自分の心の凹凸(おうとつ)と向き合ってほしい」
2019年4月5日公開を控えた映画『麻雀放浪記2020』(白石和彌監督)。同作は公開前にも関わらず、様々な“話題”を呼ぶこととなりました。
今回、主演の斎藤工さんに『麻雀放浪記2020』について公開直前インタビューを行いました。
『麻雀放浪記2020』がノーカットで上映されることに決定!
公開直前、キャストのひとりであるピエール瀧氏が逮捕されるという出来事がありました。
関連コンテンツの“自粛”が相次ぐ中、『麻雀放浪記2020』はピエール瀧氏のシーンも含めノーカットでの上映を決断。ネットでは多くの反響がありました。
―『麻雀放浪記2020』が4月5日にノーカットで上映されることに決まりました。このことに関して斎藤さんはどのように感じておられますか?
斎藤工(以下・斎藤):この作品に関して……だけの問題ということではなく、映画、有料コンテンツということで、僕は英断だとは思うんです。
決してこれは「(関連の事件を)容認している」ということではありませんが、やはり近年のコンプライアンス、自粛、自主規制といったものが強さを増しているということ、そして「生まれ行く作品」と「その出口」について、僕らはもっともっと深刻に考えないといけないな、とは思います。
でもまず僕としては、10年前に原作の阿佐田哲也さんの奥様と、この『麻雀放浪記』を今の若い知らない世代の人たちにもう一度お届けするために立ち上げた企画が、10年という時間を経て実現しました。ほんとに色々ありましたし、そもそも僕も出演する形じゃなかったんです。
そういう流れで、やっぱり人様にお届けする、公開する、人から人に届けるという目的は一つの大きなゴールとしてスタッフ、キャスト一丸となって頑張ってきました。色んなこと言われるとは思いますが、決断してくださった東映さんとプロデューサー陣、白石監督に僕は感謝したいなと思っています。
伝説的な名作『麻雀放浪記』をリニューアルする怖さ
原作『麻雀放浪記』(1969年~1972年)は阿佐田哲也による長編ピカレスク(悪党)小説。戦後の日本を舞台に、主人公・坊や哲が繰り広げる博打とイカサマのヒリヒリとした人間模様は大人気となり、累計250万部を超えるベストセラーとなりました。
1984年には和田誠監督による映画『麻雀放浪記』が公開。原作の魅力を見事に映像化した作品はさらに多くのファンを生み出し、斎藤工さんもこの映画に魅せられた一人でした。
―白石監督だからこの『麻雀放浪記』がこういう風に生まれ変わったんじゃないかって思われるところはありますか?
斎藤:企画側の人間としては、あれだけの傑作を和田誠さんが作られて、それをリメイクするということの恐ろしさも同時に感じ続けてきました。佐藤佐吉さんの書かれたこの台本で白石さんが撮ったら、それはリメイクじゃなくて本当にリニューアルになるな、と。白石作品の新しい扉になったのではないか、と思っています。
何より阿佐田哲也さんが生きていらっしゃったらきっと喜んで下さっているだろうと思います。
クセの強いキャラクターとの対峙
『麻雀放浪記』には主人公・坊や哲にイカサマの技を仕込む出目徳をはじめ、相棒であり敵でもあるノガミのドサ健など、アクも個性も強すぎるキャラクターが登場します。“食うか食われるかの世界”で過ごしてきた坊や哲について、斎藤工さんはどう見ているのでしょうか。
―出目徳やドサ健の強靭さ、したたかさに対し、坊や哲はそれらとはまた違った“強さ”を持つキャラクターだと思います。斎藤さんが坊や哲の“強さ”を演じる際にはどういう部分に気を遣われましたか?
斎藤:僕は阿佐田さんの作品、色川さん(※色川武大:阿佐田哲也の別ペンネーム。直木賞作家)としてもですけど、読んで思うのは、登場人物の吸収力と順応していく能力だと思うんです。屈強な強敵に出会うんですけど、どこか彼らの長所を吸収しながら成長していくという、なんかその成長譚のような。
そこが僕は「坊や哲らしさ」なんじゃないかな、って思いました。
だから決して完全無欠じゃなくて、―むしろ弱点だったり、ボディは空いている状況もあったり、そこが哲らしさだったりするんです。そこを打たれ傷を負いながらも、かさぶたのようにキズの部分が分厚くなっていくのが、なんか哲なんじゃないかな、と。
見た目以上に精神性の坊や哲を演じたつもりではあります。
―弱さがきちんと強さに変わるような。
斎藤:そこが進化ポイントだと思うんです。人の欠点や弱点、弱さが。それを哲もどこか乗り越えていくというか。それには敵対する“強敵”が必要なんです。
『麻雀放浪記2020』には、『麻雀放浪記』に劣らぬクセの強いキャラクターが揃っているとのこと。あらすじにも「ドテ子」「クソ丸」といった、原作小説ファンにも聞き覚えのあるキャラクター名が連なっています。
戦後昭和と平成の“サバイバル”
坊や哲はかつての『麻雀放浪記』の舞台である1945年の“戦後”から、2020年という“戦後”へと転がり込んできます。「生き抜いたもの勝ち」のサバイバルから、「生きづらさ」が伴う現代のサバイバルの違いについて、斎藤さんはどう考えているのでしょうか。
―白石監督もおっしゃられていましたが、この現代は自粛や規制ばかりで非常に生きづらい空気があると思います。坊や哲の居た戦後のサバイバルに対して、現代のサバイバルはどう違うと思いますか?
斎藤:今のこの時代は、“調和の極み”だと思うんです。いかに目立つかというよりは、いかに目立たないか、というか。
でもその分ネットなんかで、そこでうごめいてる“何か”が発散される時に事件が起こったり、といったことも現代はある気がします。
―違和感を排除しようという感じ?
斎藤:そうですね、違和感を集団で排除しようとしているところが僕は悪質だなと思っています。
人にとって違和感てたぶん各々違うはずなのに、その集団のルールにのっとったような違和感、敵視、そういう自制みたいなものが実は僕らもそこに両足浸かっている。がん細胞のような摘出のされ方をするというか。
既にそこに居る、と気づいてないことが結構悲惨だったりすると思うんです。
『麻雀放浪記2020』は、その二つの時代を行き来することで、その部分が強調されている気が僕はしています。
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