恐ろしいのに止められない『あの子はもういない』

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恐ろしいのに止められない『あの子はもういない』

 何の罪もない者が必要のない重荷を背負わされ、望まない人生の路を歩む。

『あの子はもういない』(文藝春秋)はそういう小説だ。前回に続き、韓国ミステリーのご紹介である。作者のデビュー作となるイ・ドゥオンは1985年生まれ、韓国コンテンツ振興院が人材の発掘育成のために創始した「創意人材同伴事業」の支援を受けて、デビュー作となるこの小説を書き上げた。間もなく第二作が刊行予定だという。

 物語は、主人公のユン・ソンイが刑務官の採用面接試験を受ける場面から始まる。面接官の待つ部屋に入ったソンイの耳には彼女を売り物のように品定めする声が聞こえ、衣服を剥ぎ取ろうとしているのかと感じる暴力的な視線を感じる。しかし、それは現実ではなく、緊張が生み出した彼女の妄想なのだ。このただならない場面を読んだだけで、読者はソンイがなんらかの問題を抱えていることに気づくだろう。結局彼女は面接試験を最後まで受けることなく、卒倒してしまう。

 目が覚めたとき、ベッドの傍らには面接室にいた女性が立っていた。実は、彼女は強行犯係の刑事だったのである。ソンイに身分を明かしたあと、刑事は意外なことを訪ねてくる。妹のユン・チャンイと連絡がつかないかというのだ。

 引き裂かれた姉妹を巡る物語であり、壊れた家族の悲劇が根底にあることが最初に明かされる。ソンイとチャンイの両親は、かつてTVの青春ドラマなどで人気を博したこともある俳優だった。しかし本物の花形ではない。好機をつかみ損ね、どうでもいいような端役しか出演の機会がない三流に成り下がった。彼らの心は過ぎてしまった栄光の日々の中にあり、現実を直視しようとはしなかった。そして、再び脚光を浴びるために、我が子を利用しようと考えたのだ。父親がつかんできたのは、リアリティ番組への出演という切り札だった。「ミリオン$キッズ」というその番組は、結果的には家族崩壊の原因になってしまう。父親と共に出演したチャンイは、初めこそ視聴者に愛されて人気を得るが、カメラの前で犯した失態が元で憎まれ始め、番組から追放されるからだ。夫婦の間に諍いが絶えなくなり、家を飛び出た母親は事故死を遂げる。

 一家を見かねた母方の祖父母が子供たちを引き取ろうと申し出てきたが、救済者に対し父親は、渡せるのは姉妹のうち一人だけだと我を張った。そこで十三歳のソンイは七歳の妹を裏切ったのである。

—-妹と私はまたもや並ばされ、陳列台の上の魚と化した。けれど、その頃にはもう、私は承知していた。人々がどんな魚を買っていくのか。買われたければどうすべきなのか。簡単なことだ。跳ねるのだ、力いっぱいパタパタと。新鮮なふりをすればいいのだ。

(中略)私は、握っていた妹の手を放した。その手で祖父の服の裾をつかむ。「私を選んで」と言わんばかりに。

 こうしてソンイは家族を捨てる。十年という時が流れたが、その間まったく家族とは連絡を取らず、存在そのものを忘却の彼方に追いやっていた。妹の級友が殺人と思われる状況下で不審死を遂げ、消息を絶ったチャンイもなんらかの形でそれに関係している可能性がある、と刑事に告げられるまで。報せに驚き、かつて住んでいた家を訪れると、妹だけではなく父親の姿も消えていた。さらにソンイは、家じゅうに監視カメラが仕掛けられていることに気づく。まるでそこで暮らす者の記録を取ろうでもするかのように。

 イ・ドゥオンによって描き出される情景は謎めいているだけではなく、画面のどこかに不健全なものが映りこんでいるのではないか、というような落ち着かない気分を呼ぶ。一つには、主人公が我が身可愛さに妹を見捨てたという罪悪感を抱えているためでもあるだろう。ソンイの視点以外にも幼いチャンイが書いた日記や、小児性愛者と思われる男の行動などいくつかの怪しい断片が挿入される。小説が終盤にさしかかるまでそれらが意味するものが何かはわからないのだが、テンポよく綴られた文章の読み心地がいいために、ページをめくらされてしまうのである。この先には絶対に怖いものが待っている、と感じながらも手を止めることができなくなる。不快なのに加速さえついてしまうのである。

 最初に書いたように、抗うことのできない力によって弱い者が蹂躙されるさまを描いた小説でもある。十年の間に肉親の身に何が起きたのかを知るために、主人公は関係者を訪ね歩いていく。証言の中には一見チャンイに降りかかった出来事とは無関係に見えるものもあるが、実はそれらも同じような悪意の形を描いていることに気づかされる。一時期チャンイの面倒を見ていた女性は、上司に暴行され、身体の一部を失っていた。彼女は、そのときのことをソンイに語る。

「でも何でしょうね、そのとき私、何にもできなかったんですよ。もっと大声出して、もっと激しく抵抗すればよかったのに。会社の中で起こったことならともかく、そこは外だったのに」

「[……]でも、そのふつうっていうのが怖いのかも。私はすでに、ある秩序に馴らされてたってわけですよ。加害者は上司で、歳も上。そんな相手には服従し、礼を尽くすべきだ。そんな考えが心にも体にも沁み込んでしまっていたんです」

 人を傷つける者がいかに厭らしく、抵抗できない形で迫りくるものかということを、本書を読みながら改めて思い知らされた。だからこそ登場人物たちが辿り着いた真実の恐ろしさ、哀しさが胸に迫るのである。圧倒的な迫力のエンターテインメントは、最後に厳しい現実を示して幕を下ろす。

(杉江松恋)

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