海外勤務経験なしの大手企業社員が、いきなりミャンマーに移住するまで――桂川融己(ライター・企業支援)
「人のキャリアは偶然の賜物」――。今回お話をうかがった桂川融己さんのキャリアを知ると、そのような言葉が浮かびます。中小ベンチャー志望でありながら、大手企業である日本生命に入社して7年間9カ月勤務後、海外旅行さえほぼ未経験だったにもかかわらず、ミャンマー移住を決意した桂川さん。2回に分けてお届けする記事の第1回目は、ミャンマー移住を決意するまでに辿った道のりをお伝えします。
プロフィール
桂川融己(かつらがわゆうき)
大学卒業後、2006年に日本生命保険に総合職入社し、金沢支社勤務を経て東京本部で勤務した後、2013年末に退社。翌月からミャンマーに移住し、現地企業に転職。現在はミャンマーでフリーランスとなり、ビジネス誌作成などのライター業に加え、日本からアジア進出する企業への支援事業を手がける。
「中小ベンチャー志望」にもかかわらず、“流れで”大手企業に入社
――大学卒業後に日本生命に入社されたとのことですが、もともとは大手企業志望だったのでしょうか?
いえ、大学生の頃は経営に近い仕事をしたいという気持ちがあり、中小ベンチャーを志望していたので、実は大企業は頭の中にありませんでした。就職活動時も形式ばった大企業の会社説明会よりも社長自らが登壇するセミナーに好んで参加し、どこかビジョンに共感できる経営者がいる会社を見つけて入社したいと思っていたんです。
ところが、あるとき大学のサークルの先輩から、「面接の練習になるから」とリクルーターの方を紹介されて、いくつか大手企業の面接を受けることになったんですよね。そのなかに日本生命もありました。あくまでも「試しに受けてみた」という感じだったのですが、思いもよらず選考をどんどんクリアしていって、いつの間にか引くに引けないところに来ていたという感じです(笑)。
とはいえ、仕方なく日本生命を選んだわけではありません。「将来はもっと自信をもった人間になりたい」という個人的な思いがあり、当時お会いした日本生命の社員の方々は、まさに自分が思い描くイメージに合っていたので、入社することにしました。
本音では、「日本生命に入った」と言うと、何となくかっこいいかな、という気持ちもありましたが(笑)。
――入社後はどのようなお仕事をされていたのでしょうか?
2006年に入社し、最初の3年間は石川県の金沢支社に配属され、支社の営業担当の業績管理を主にやっていました。そのほかに、社員のモチベーションアップのためのイベント企画や、顧客向けのパーティーの運営などもやりましたね。
その後は、東京の本社に異動し、「拠点長ビジネススクール室」に配属されました。ここでの仕事は全国の営業担当の方に情報提供するというもので、たとえば毎年の税制改正の情報や、顕著な営業成績を上げた営業拠点のメソッドなどを教材に落とし込んで展開していました。
拠点長ビジネススクール室は、全国でもすごい成績を上げた方々が集まっていたので、毎日刺激的でしたね。そんな仕事を続け、2013年末に退職したという経緯です。
ミャンマー移住を思いつき、1年以内に実現
――それでは、海外勤務の経験はなかったんですね。ミャンマーにつながるきっかけは、何だったのでしょうか?
よく、「ミャンマーに何かゆかりがあるのか」と聞かれることがありますが、実は日本生命を退職する年まではまったく縁はありませんでした。海外勤務はもちろん、旅行でさえミャンマーには行ったことはありません。
そもそも海外に初めて行ったのも、大学の卒業旅行で友人とイギリス、フランス、イタリアを巡ったのが初めてで、就職してからも2回海外旅行をしただけです。英語も苦手でしたし。
ただ、気持ちのどこかに海外に対する憧れはありました。大学生のときにも、ふと、「海外留学しようかな」と思ったこともあったのですが、ちょうど就職活動の時期だったので断念したということがあったんです。
そういう気持ちが、日本生命を退職する2年前くらいから再び湧いてきたようで、ひとまず通勤電車で英単語の勉強をはじめてみました。相変わらずミャンマーというのはまったく頭の中にありませんでしたが。
転機になったのは、日本生命を辞める直前の2013年5月でした。そろそろ夏休みの計画を立てようと思い、「海外に行ってみよう」と頭に浮かんだんです。当時はASEAN諸国が新聞などでも話題でしたから、どこかアジアの国に行ってみようと考えました。
あれこれ想像しているうちに、「移住して現地企業に転職しようかな」ということに思い至り、当時はまだ想像の上ですが、「アジアの中でどこがいいだろう?」ということを考え始めたと記憶しています。
人口が増えて経済的に発展する国がいい、だけど日本人があまりたくさんいるところは避けたい――。そうやって絞り込んでいくうちに、やがて残ったのがミャンマーでした。
――それでは、日本の仕事はどうするつもりだったのですか?
当時は2年間くらい生活できる貯金もありましたし、給料は二の次で、まずは現地に足を運んでみて、現地でいくつかの会社を見て、就職先を決めようと思っていました。ただ、そんなときにインターネットで、たまたま日系企業を顧客とする現地企業が人材募集をしていることを知り、理念にも共感し興味を持ったんです。
それに、「語学力不問」と書かれていたことも大きかった(笑)。「30歳未満で、Word・Excel使用」という条件はありましたが、これなら自分でも大丈夫かもしれないと思い、その企業に連絡を取ってみました。
すると、そこの社長も日本人で、6月に日本に一時帰国するということで面接を受けることになったんです。その場で給与や仕事内容など打ち合わせをして、その後メールのやりとりの中で「ミャンマーに来てくれるなら採用したい」との言葉をいただきました。
人生の責任を取るのは自分しかいない
――急展開ですね。ミャンマー移住について、職場の反応はどうでしたか?
まず上司には、ミャンマーの企業の社長と会った翌月の7月に相談をしました。すると、「まだ決まったわけじゃないんだろ?一度もミャンマーに行ったことがないんだから、現地を見た上であらためて話を聞かせてほしい」との反応でした。たしかに、それはそうですよね(笑)。
8月の休暇を利用してミャンマーに滞在したのですが、現地で社長からオフィスを見せてもらい、生活する環境なども確認した上で、「これなら大丈夫」と感じて帰国しました。
帰国後、上司に相談したときには、やはり反対されましたね。「自分がお前の家族だったら絶対に止める」と言われ、会社に残るなら私が以前から希望していた部署へ推薦してくれるという話も出たので、正直少し気持ちが揺れました。
ただ、その時期に友人と食事をして、「来年から希望の部署に異動するのと、ミャンマーに行くならどっちなの?」と聞かれたとき、あっさりと「ミャンマー」と答えている自分に気づき、移住を決意しました。おそらく、自分の中でもすでに答えは出ていたのでしょう。
――ご家族の反応はいかがでしたか?
家族はもっと大変でした……。職場に辞意を伝えた後に実家に連絡したのですが、「帰ってきなさい」と言われ、急遽、家族会議が開かれました。私が生まれてから初めての家族会議です(笑)。
実家は田舎の方で、私は長男ですから、「結婚はどうするの」「この家はどうしていくの」などいろいろと聞かれました。とにかく心配だったようです。
もちろん、そうした家族の気持ちは理解できましたが、一方で「自分の人生に責任を取るのは自分しかいない」という考えもありました。親が言うとおりに生きていても、それでうまくいくとは限りませんし、親に責任を取ってもらうわけにもいかない。だったら、自分の意思で選んだ道を歩むべきだと思ったんです。
そんな話をして、最終的には半ば強引に家族にも納得してもらい、2013年12月末をもって日本生命を退職し、翌月からミャンマーの生活がスタートしました。
――次回へ続く 文・小林 義崇 写真・中 惠美子
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