メタフィジカルな奇想と上品なユーモアのショートショート連作
ここ数年、ショートショートが新しい盛りあがりを見せていて、ファンとしては嬉しいかぎり。この分野では、星新一というあまりに偉大な存在がいて、かつてはその引力圏のなかに多くの作家や読者がいたのだが、最近ではやや状況が変わってきたようだ。もっと自由に、それぞれのスタイルがあっていい。もちろん、星さんが現役のころから独自のショートショートをものにしている書き手はいたのだけど、いまはさらにその気風が強くなっている気がする。そのなかには他愛ないコントや落とし噺もあり、またいっぽうで斬新な実験小説もあり、まあ、玉石混淆なのだけど。
ここにまた一冊、独自のスタイルのショートショート集があらわれた。
……といっても、実際に書かれたのはもうだいぶ前で、いまは休刊になった専門誌〈SF Japan〉に六年にわたって発表された連作だ。埋もれていた旧作に新しい二篇を加えて都合四十八篇、こうして一冊にまとまった。まずは、その企画に拍手を送りたい。日下三蔵編集のハヤカワ文庫《日本SF傑作選》(現在までに、筒井康隆、小松左京、眉村卓、平井和正の巻が刊行)をはじめ、現代日本SF揺籃期の作品の再評価はだいぶ進んでいて、それはそれでたいへん素晴らしいことなのだが、私見ではむしろ一九八〇年代〜二〇〇〇年代の日本短篇SFに掘りおこされるべき金脈が埋まっていると思う。
前置きが長くなってしまった。
『百万光年のちょっと先』は、ベッドタイム・ストーリーの形式で構成されている。つまり、少年が眠りにつく前のひととき、毎晩ひとつずつ不思議な物語を聞かされる。枠物語は宇宙時代に設定されていて、語り手を務めるのは古い自動家政婦だ。
彼女はかならずこう語りはじめる。
百万光年のちょっと先、今よりほんの三秒むかし……
「三秒むかし」と前置きしながら、あるエピソードでは「これは科学がまだ若々しく魔法じみた力を保っていたころ」と説明が加わったり、また別なエピソードでは結末に至って「これはずいぶん昔の話ですが、もちろんふたりの子孫にあたる人は今もいきています」などと、しれっと言ったりするのはご愛敬。これが古典的な物語ならば矛盾ではないかと不服に思うひともいるかもしれないが、『百万光年のちょっと先』は一般相対性理論や量子力学以降の時空認識をあたりまえのように取りこんでいるので、ああ、そういう宇宙なのねですんでしまう。また、文芸としてみれば、寓話としてあっさりと納得できる。
このあたりの感覚は、イタロ・カルヴィーノ『レ・コスミコミケ』に近い。ただ、カルヴィーノがおもいっきりメタフィジカルにアクセルを踏むのに対し、本書は昔話風にまとめてしまうことが多く、それが懐かしいような、トボケたような風韻となっている。嗜好品のように、いっぺんに読むのではなく、ゆっくり一篇ずつ読みたい。眠りに落ちる前に読むのが理想だけど、ぼくは仕事のあいまや移動中にぽつぽつと読んで、贅沢な気分にひたりました。
とくに印象だったエピソードを、いくつかご紹介。
とある惑星の片隅の訪れる者もないうらぶれた墓地。そこに、ひとりの墓守が住んでいた。さぞ寂しい毎日と思いきや、墓地に風が吹くと、九十九個の墓石のまわりに渦を巻き、それらが墓石表面に刻まれた装飾によって、微妙な偏向を加えられ、それぞれが個性を持って話したり歌を歌う。つまり、彼らは硬い石材と形のない空気を媒体とした、擬似的な生命なのである。墓守は彼ら(?)と楽しく暮らしていたが、やがて旅に出ることになり……。「墓守と風の幽霊たち」と題されたこの話は、どことなくブラッドベリを思わせる情緒がある。
とても足の速い、その男。毎日毎日、惑星中をびゅんびゅん駆けまわっていた。友人が「少しは落ち着いたらどうだ」と声を助言しようにも、最初の言葉が届くか届かないかのうちに通りすぎてしまうので、けっして耳に入らない。そんな男の前に、ひとりの老人が空の上からひょこひょこと歩いて降りてきた。男はどうして空を歩けるか気になってしかたがない。老人は「このブーツを履けば造作もない」と説明しはじめるが、男はもう居ても立ってもいられず、老人からブーツを借りると天に向かって駆けだす。しかし、足任せに走ったせいで、すっかり見知らぬ星域に迷いこんでしまって……。これは「韋駄天男と空歩きの靴」という話だ。ポール・アンダースンは『タウ・ゼロ』で、加速が止まらなくなった宇宙船の運命を描いたが、そのコンパクト版とでもいうべき発想。結末もアンダースン作品に負けないほどスケールが大きい。
ぼんやり娘はしじゅう「鳥は空を飛べるのに、なんであたしたちは飛べないんだろう」などと口走り、母からくだらないことを考えているんじゃないよと叱られていた。ある日、上の空で食事をしていて、パンを持つ手をすべらせてしまう。すると、バターを塗った面を下にして床に落ちた。なんで、いつもバターの面から落ちるのだろうと考えているうち……。「パンを踏んで空を飛んだ娘」は、ラリイ・ニーヴンあたりが得意とする、ジョーク的な前提から論理的にアイデアを膨らませる与太話。ひねくれたSFファンが多い会合では、こういう話でよく盛りあがったものです。
銀河間空間に設けられた、とてつもなく大きな動物園。ほかでは見られない超生物が何種類も展示されているのだが、そんななかでポツンとどうにも冴えない檻があった。直径二メートルの灰色のエネルギー球のなかに、いっけんなんの変哲もない人間型生物が一体収められている。眺めていても、あくびをして尻をかくばかりのツマまらない生き物だ。しかし、この生き物には特別な能力があった。あらゆる物体の存在確率を自らの意志で操作し、無から有を生み出せる。つまり、檻のなかの小空間で、何の手助けもなく生きていられるのだ。逆にいえば、そんな生物だからこそ、エネルギー球のなかに隔離しておかなければならない。ところが、動物園の経営が思わしくなく、不人気の動物はリストラされることになってしまった。エネルギー球の電源が落とされると……。「檻の中、檻の外」は、「胡蝶の夢」の変奏で設定や構成は目新しくはないのだけど、動物の世話をしている凡庸な飼育係が檻の中の冴えない生き物に「兄弟」と呼びかけたりする運びが面白い。
エピソードごとに奇想や超常の度合い、アイデアの独創性はまちまちだけれど、ユーモアが上品なのは共通している。『To LOVEる -とらぶる-』で知られる人気漫画家、矢吹健太朗の挿絵つき。
(牧眞司)
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