アーケード全壊の震災から、住民主体で復興を遂げたえんま通り商店街

アーケード全壊の震災から、住民主体で復興を遂げたえんま通り商店

マグニチュード6.8。そんな地震が自分の街を襲ったら、どうやって復興するかイメージできますか?2007年、実際に被災し、住民主体で街の復興に挑んだ街があります。それが、新潟県柏崎市えんま通り商店街。震災から10年の節目に、当時の「えんま通り復興協議会」理事長だった中村康夫さんに、復興に関する取り組みを伺ってきました。

歴史ある商店街が、一瞬で被災地に

震災が直撃したのは、海に面した新潟県柏崎市の中心街に位置する「えんま通り商店街」。年に一度ここで開催される「えんま市」は500以上の露店が並び、延べ20万人もの来場者数を誇る、人気イベントです。【図1】えんま市の様子(写真提供/えんま通り復興協議会)

【図1】えんま市の様子(写真提供/えんま通り復興協議会)

この地をマグニチュード6.8の地震が襲ったのは、2007年7月16日午前10時13分。

商店街の道路に沿うように地震の亀裂は走り、道路南側の下町エリアは7割以上の建物が倒壊もしくは全壊の判定を受け、商店街をつなぐアーケードも崩壊してしまいました。

中村さんは創業140年になる呉服店「紺太」を営んでおり、当時は鉄筋コンクリート5階建てのビルに呉服店や飲食店、紳士服、婦人服、化粧品、寝具なども扱うデパートのような形態で経営していたそうです。

しかし地震により下町エリアにあった同店舗は大規模半壊。柱は折れた鉄骨がむき出しになり、中はぐちゃぐちゃ。営業ができない状態になってしまいました。

「店の再建はもちろんですが、そのころえんま通り商店街の理事長を務めていたこともあって、私が復興のための組織をとりまとめることになりました」【図2】復興協議会の代表を務めた中村康夫さん(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部) 【図2】復興協議会の代表を務めた中村康夫さん(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)【図3】震災発生当時の被害の様子 (写真提供/えんま通り復興協議会)

【図3】震災発生当時の被害の様子 (写真提供/えんま通り復興協議会)

「言葉を優先したビジョンづくり」が復興のカギになる

しかしながら、中村さんをはじめ誰も震災復興なんて手がけたことはありません。

店の再建はできるのか、資金はどうすればいいのか、目処は……中村さんたち商店主それぞれが大きな不安を抱えるなか、さまざまな企業や団体から復興プランやビジネスの提案が持ち込まれましたが、実現の目途が立つものばかりとは言えませんでした。そのとき、道筋を照らしてくれたのが、柏崎市の新潟工科大学で都市計画の教鞭をとる田口太郎准教授であり、この出会いが「住民主体の復興」を方向付ける決め手となりました。

田口教授は「まずは、言葉を優先したビジョンをつくりましょう。そうしないとバラバラの街になってしまいます。例えばビジネス先行型の、駐車場を広く品ぞろえのいい店を単につくるだけなら簡単です。しかし何年、何百年と価値のあるまちにするのであれば、素敵な小道があって、昔から住んでいる人がいて、歴史を重ねた建築があって…まちづくりは一時的に儲けを優先するフロー型ではなく、ストック型の取り組みなんですよ」と話したそう。

「震災から10日ほど経ったころにお会いしましたが、お話の内容にストンと納得できた。着物の世界もフローが優先されてきていますが、職人や作家が歴史をつないできたいいものをしっかり残す、そういった積み重ね=ストックが大切だと思ってきました。街も同じなんだ、と気づくことができた。だから田口先生についていこうと思ったんです」と中村さん。

田口准教授がプランの指揮をとり、地元の機動力で動かしていくスタイルがまずできあがりました。続いて、商工会の若手10人ほどで「えんま通りまちづくりの会」を結成し、どんなまちづくりを行っていきたいか、柏崎に相応しい建物とは、といった議論が始まりました。

田口研究室の学生たちもワークショップなどの実施サポートに入り、模型をつかったワークショップや丁寧なヒアリング、街歩きなどを通じて、構想を練り上げていきました。震災直後から毎週水曜日に会議を行い、被災後約2年も続きました。

わずか5ヵ月で復興の指針となるビジョンを策定

地震が起きた2007年の年末には、「復興ビジョン」が完成。このビジョンを市長に提出したことで、行政との連携も動き出しました。

ビジョンの大きな柱は「新生!えんま通り ∼未来に向かって歩み続ける、えんま堂と共に懐かしく∼」。

具体的には

・物販機能の強化

・新しい人や店が入れる環境をつくる

・歩行者を第一に考えた街路づくり

・会話が生まれる場づくり

・えんま堂と町のかかわりをもっと大切にする

・自然地形、跡地空間の整備

以上の6条項からなります。

そしてより具体的な計画として「復興まちづくり構想」と「ガイドライン」をまとめ、事業化を推進していくことを目的に、住民など全地権者を統括した「えんま通り復興協議会」ができたのが震災から8カ月後でした。

外部のサポートを受け、「民」の力で復興を進める

8カ月で指針が固まるという、かなりスピードの速い進捗ですが「実際は、侃々諤々(かんかんがくがく)のやり取りもありました。でも最初に田口先生と出会えていたことで、揺らぎませんでした」と中村さんは振り返ります。

しかし田口准教授はプランの策定までが専門。

そこで次の実施段階で、まちづくりに精通した建築の専門家として、教授から紹介を受けたアルセッド建築研究所(以下アルセッド)という企業が参画します。

「私たちでは、どんな制度があって、どれを使ったらいいのか分かりません。県や国など行政の制度やそれらを活用した申請のサポートをしてもらいながら、計画を具現化していきました」

田口准教授とアルセッドを中心とした「えんま通りの復興を支援する会」、さらに心強い存在が、田口研究室の学生たちの協力でした。

彼らにとっても授業での学びが実地で活かされる貴重な経験であり、どんどん地元に溶け込んでいったと言います。

なかでも長野県出身の水戸部智さんは卒業後も柏崎に定住し、そのまま柏崎の復興やまちづくりを盛り上げるべく、特定営利活動法人「柏崎まちづくりネットあいさ」の事務局長として今も活躍しています。【図4】ワークショップの様子。日の向きや、雪、海が近く風が強い、さらには傾斜地という特徴など、この土地ならではの注意するポイントはたくさん 【図4】ワークショップの様子。日の向きや、雪、海が近く風が強い、さらには傾斜地という特徴など、この土地ならではの注意するポイントはたくさん (写真提供/えんま通り復興協議会)【図5】「えんま通りまちづくりの会」の会議は、復興事業が進むにつれて場所を転々とし、最終的には復興支援を専門とするNPO団体から寄付されたトレーラーハウスを活用することに。それは現在も進行会の事務所として利用されています(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

【図5】「えんま通りまちづくりの会」の会議は、復興事業が進むにつれて場所を転々とし、最終的には復興支援を専門とするNPO団体から寄付されたトレーラーハウスを活用することに。それは現在も振興会の事務所として利用されています(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

コミュニケーションが育まれ、機能を明確にしたゾーニング

では実際どんなプランが進められたのでしょうか?

えんま通り商店街のなかでも、全壊の建物の向かいがほぼ無傷であったり、緊急性が異なったりして、震災復興に対する姿勢は十人十色でした。街全体でテーマをもったゾーニングを進めるため、復興は段階的に進められていきました。

街では、震災というネガティブな状況を「新しい街をつくる機会」とポジティブに捉え、高齢者福祉、商業、防災広場、閻魔堂の再建…とゾーンを分け、12のプロジェクトを実施。

特徴的な施策の一つとしてあげられるのが、「お庭小路」と呼ばれるコミュニティ空間の形成です。個人の中庭を繋ぎ、緑化されたまちなかの住環境と回遊性を向上させる仕組みになっています。【図6】緑化事業の一つ。街中に豊かな緑と語らいを提供する「なないろ公園」(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

【図6】緑化事業の一つ。街中に豊かな緑と語らいを提供する「なないろ公園」(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

また、通り沿いの連続感が感じられるよう、店舗前の駐車場を極力排し、共同駐車場の活用などを奨励。

えんま堂の再建支援は、市民の募金による市民事業となりました。

中村さんの敷地は、2者以上の地権者で土地を出し合って、新しくつくる建物の面積の1/2を住居区画にする“優良建築物等整備事業”という国交相の事業に採択され、復興への足がかりに。

「1年くらいはこんな街にしたいと色々な意見を出し合い盛り上がりましたが、震災直後にみんなで思い描いた理想は、現実では崩れていくところもあります。でももともと結束力のあった街なので、その中から少しでも接点を見出して復興を進めていくことができました」

昔あったアーケードはなくなってしまいましたが、それぞれが軒先に雪よけの屋根である雁木(がんぎ)のようなあしらいを設けて統一感を出すなど、新たな街並みの連続性を創出しています。

ハイペースの復興を遂げ、震災から10年経った現在

「おおよそ復興の目処が立ったなと思えたのは、震災から5年経ったころですね。とにかくここに戻ってくることが第一でした。震災直後から私は隣町に商売を移していましたが、5年後に元の店舗の場所に戻ってこられてホッとしたのを覚えています」と中村さんは回想します。【図7】中村さんのお店「紺太」は、雁木を模した門が出迎えてくれる。(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

【図7】中村さんのお店「紺太」は、雁木を模した門が出迎えてくれる。(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

そのころにはプラン実施の見通しがつき、あとは復興ビジョンとまちづくりガイドラインに沿って進めていくフェーズだったそう。

とても早い復興のスピードですが、その秘訣は、7~8人の復興協議会の中心メンバーが、モチベーションを最後まで下げずに集まったこと。そしてそれぞれ街への愛情が大きく、住民主体の復興を行ったことで、住民間のコミュニケーションが深まったといいます。

2017年7月。一つの区切りとして、復興協議会は解散。

時を同じくして住民主体の復興が評価され、「都市住宅学会業績賞」に表彰されました。【図8】現在のえんま通り商店街の様子(写真提供/えんま通り復興協議会)

【図8】現在のえんま通り商店街の様子(写真提供/えんま通り復興協議会)

「時代の流れで昔のようなにぎわいを取り戻すことは難しいでしょう。震災で商売をたたまれた方もいらっしゃいます。状況は常に変わっていくものですが、私はこの土地が好きだし、この街を愛する人たちが、じっくりしっかりと暮らせる街にしていけたらなと思います」(中村さん)

中村さんにお話を伺うなかで、適切な専門家がサポートに回ることで市民の力が活かされ、その連鎖から自発的な活動が誘発されたことを学びました。実際に商店街を歩き、高齢者に配慮した施設やゾーニング、身近に緑を感じられる空間など、買い物だけにとどまらない暮らしやすさに触れることができ、この「利害を超え、土地や人を思う気持ち」「地元目線の暮らしやすさ」こそが、復興プロジェクトの成功を物語っていると実感しました。
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