ドラ猫を追いかけるサザエさんは無意味か

ドラ猫を追いかけるサザエさんは無意味か

今回はメカAGさんのブログからご寄稿いただきました。

ドラ猫を追いかけるサザエさんは無意味か

サザエさんの歌詞、

「お魚くわえたドラ猫、追っかけて、裸足で駆けてく、陽気なサザエさん♪」

これに対して昔から、“サザエさんは猫がくわえた魚を取り返して食べるつもりなのか?”というツッコミがある。猫にとられた時点でその魚の価値は人間にとってゼロになったのだから、猫を追いかけるのは無意味だろう、と。
日本はつくづく平和ボケしているなと思う。猫を追いかけるのは懲らしめるためであり、放置しておけば2度3度とその猫は魚を盗むであろう。そうさせないためには報復しなければならないのだ。

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池田信夫氏が以前妙なことを書いていた。

「“テロとの戦い”とは何だったのか(池田信夫)」 2011年05月02日 『BLOGOS(ブロゴス)』
http://blogos.com/article/3391/

9.11同時多発テロの報復のためにアメリカはアフガン&イラク戦争を始めたのに、それによる死者はテロによるものよりはるかに多い、と。
俺は池田信夫氏はどちらかというとタカ派だと思っていたので、これは意外だった。テロを仕掛けられて報復しなければ、同じことは2度3度と繰り返されるだろう。死者の数が多いとか少ないとかいう問題ではないのだ。
池田氏は著書の『原発「危険神話」の崩壊』で上述のようなことを繰り返し、“アメリカ国内ではプールによる水死や交通事故死の死者のほうがはるかに多いのに、アメリカ国民はテロのほうを恐れる”という。それが池田氏にとっては奇妙らしい。
まったく俺には理解できない。プールの水死や交通事故死は誰もコントロールできない。一方テロを起こすかどうかはテロリストの意思に依存する。「要求を聞かなければテロを起こすぞ」と脅され、それに対してアメリカ政府が為す術を持たないなら、アメリカ国民は政府を信頼するのをやめ、テロリストの言うとおりにすべきだと言い始めることだろう。
テロと戦うのは、死者を減らすためではなく、テロの脅しに屈しないためなのだ。常々日本の国家戦略を語っている池田氏はこんなこともわかっていないらしい。ちょっと拍子抜けだ。

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このエントリを書こうと思ったのはこれを読んだからだ。

「“自分の子どもが殺されても 同じことが言えるのか”と 書いた人に訊きたい」 森達也 『リアル共同幻想論:ダイヤモンド・オンライン』
http://diamond.jp/articles/-/16819

遺族の感情を理由に死刑廃止に反対している人間は、“天涯孤独の人間なら殺してもいいのか?”と問いかけている。これも的はずれな反論だと思う。本人はそう思っていないのだろうが……。
第三者が「遺族の感情を考えろ」と言うとき、それは赤の他人の遺族のことを本当に考えているわけではない。もし自分が遺族と同じ立場になったら耐え難い、自分は絶対そういう立場になりたくないという感情が「遺族の感情を考えろ」という言葉なのだ。
殺人犯を死刑にするというのは、自分の近親者が殺人犯に殺されることを防止するためだ。殺人をすればそれ相応の報復(=死刑)がある、と。
森達也氏は「身内をアメリカ兵に殺されたイラク人に日本人は共感するのか」と問う。もちろん日本人の大半は共感しないだろう。なぜなら日本人の大半は同じ立場(身内をアメリカ兵に殺されるという)に立つ可能性がないからだ。
「家族を北朝鮮に拉致された日本人に共感するか」と問えば、おそらく多くの日本人は共感するだろう。日本人にとってその可能性は無視できないからだ。共感するかしないかは所詮は“自分も同じ状況に置かれる”可能性の大小によって決まる。

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死刑が殺人に対する報復として妥当なのかは、色々な考えがあるだろう。死刑は重すぎるという人もいれば、軽すぎるという人もいるだろう。軽すぎるという人はもっと苦しみが大きい残酷な方法での死刑を望んでいるだろう。
苦しみが大きい方法での死刑にすれば“死刑になりたくて人を殺した”といった殺人は減ると思う。現在のように可能な限り苦痛を伴わないような死刑は、こういう問題を引き起こす。
刑罰というのは更生のためのものであって、報復ではないのだという人もいるが、そうではないだろう。刑罰でないなら自由を制限するのはおかしい。自由を制限せず、本人の自由意志で更生の道を歩ませるべきだろう。それでこそほんとうの意味で更生したことになる。

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どう取り繕ったところで、“報復”というものは必要なのだ。ちなみに上記の森達也氏の記事、一つだけ賛同できる点がある。自分が当事者のケースと非当事者のケースでは、意見が違って当然という部分。
これはまったくそのとおりだと思う。当たり前だが当事者は客観的な判断はできない。利害関係者なのだからあたりまえだ。だから非当事者の立場で“死刑廃止”を主張している人間が、自分の身内が殺された途端「犯人を殺してやる!」と豹変(ひょうへん)したところで、なにも驚かないし、それを「言ってることが違うじゃないか」と責めるのもおかしい。
俺も第三者の立場で言う意見と、何かの事件に巻き込まれ当事者になったときの意見は、きっと違うであろう。そのときの俺は客観的な思考が不可能なのだから、どうかその程度の(冷静でない)意見と受け止めてほしい。

執筆: この記事はメカAGさんのブログからご寄稿いただきました。

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