計画すべきことが計画しつくされた宇宙で自由意志は可能か?

計画すべきことが計画しつくされた宇宙で自由意志は可能か?

 ピーター・ワッツが2006年に発表した『ブラインドサイト』は、人類とはまったく異なる知性との遭遇を扱ったサスペンスに満ちたファースト・コンタクトSFにして、多種多様なポストヒューマンのヴィジョンを内包した意欲作だった。一躍脚光を浴び、数々のSF賞に輝いた。邦訳もファン投票による星雲賞を受賞している。本書『エコープラクシア』はその続篇にあたる。

『ブラインドサイト』が革新的だったのは、知性にとって意識は必然的なものではないという設定である。人類が知性の拠り所とみなしている「意識」は進化の奇形的袋小路にすぎず、宇宙的規模の生存戦略において障害にしかならない。こうした洞察は『エコープラクシア』でも引き継がれており、「ネットワークは最低限の複雑性の閾値を超えると自我に目覚めるが、大きくなりすぎると信号の遅延で同時性が減衰してノイズになり、自我はその巨大さのなかに分解して、ふたたび眠り込んでしまう」という。つまり、自我というのは、たかだか複雑性が増していくなかにつかのまあらわれる遷移状態なのだ。

『ブラインドサイト』では、太陽系から半光年の距離にある巨大構造物ロールシャッハへ赴いた地球の宇宙船〈テーセウス〉の調査隊は、異星知性とのかけひきで後手後手にまわってしまう。この作品が複雑なのは、〈テーセウス〉の乗組員が通常の人間とはかけ離れた存在—-遺伝子操作により現代に復活した吸血鬼や、他人への共感ができない「統合者」など—-であり、彼らもまた人間性を相対化するからだ。つまり、表面的な物語は地球対宇宙生命のバトルだが、裏面では人類史をまるごと塗り替えるような運命が胎動している。

『エコープラクシア』は、〈テーセウス〉が宇宙で消息を絶ってから七年後の地球で開幕する。この時代すでに、現生人類(ベースライン)を超越した知性は珍しくない。超感覚を備え多重世界を同時に見通す吸血鬼、人知が及ばぬ思考をめぐらす計算機知性、ネットワークによって心を融合した集合精神。また、現生人類の多くも、機械的・生物的な拡張を施し能力を強化している。そんななか、主人公である生物学者ダニエル・ブリュクスは事情があってそうした処置をおこなっていない。彼はオレゴンの砂漠でフィールドワーク中、集合精神と化した宗教カルト、両球派(りょうきゅうは)と、吸血鬼ヴァレリーが率いるゾンビ軍団の争いに巻きこまれてしまう。両球派は個々の構成員の死など意にも介さない。対するゾンビはもともと死んでいる。そんな両者のぶつかりあいは、ただの人間であるブリュクスの想像を絶していた。

 ゾンビと両球派はやがて共通の敵に対するため手を結び、修道院に設置されていた脱出ポッドで宇宙へ向かう。ブリュクスもひたすら生き延びるため彼らに同行し、気がつくと宇宙船〈茨の冠〉に乗せられ、太陽近傍のイカロス衛星網への途についていた。両球派と行動をともにしている謎めいたジム・ムーア大佐(彼は『ブラインドサイト』の主人公、統合者シリ・キートンの父親だ)、両球派のウイルス神学者リアンナ・ラッターロッド、超絶的な知能と身体能力を有する吸血鬼のヴァレリー、〈茨の冠〉の操縦士ラクシ・セングブタ、それぞれに思惑があるらしいが、ブリュクスにはうかがうすべもない。ただの人間にすぎないブリュクスが視点人物であるため、読者も事態のなりゆきや、その背景にある状況が見えぬまま引きずりまわされる。まるで、巨大な魚に呑まれたヨナのように。

 聖書のヨナは神の意思に翻弄されたが、ブリュクスも人間を超えた存在どもの計略に従うしかない。ヨナはまだ神の手先として担う役割があったが、ブリュクスはたまたまそこに居合わせただけで、〈茨の冠〉のバラスト以下の意味しかない。船内の酸素を吸って、備蓄食料を食べ、貴重な与圧空間をふさぐだけの存在。ほかの乗員は彼が生きようが死のうが気にかけない。

 そんな境遇のなかで、ブリュクスはこう考える。

 よし、わかった。おれは寄生虫だ。寄生虫は宿主に滅ぼされたりしない。逆に食い物にする。宿主を自分の目的のために利用するんだ。

 ちっぽけな矜恃だが、ここではっきりと自由意志の問題が示される。自らの意志で主体的に行動する主人公は古き良きアメリカSFの伝統だが、『エコープラクシア』の世界では素朴な自由意志がほとんど成立しない。なにしろ、両球派も吸血鬼も超絶的な思考能力があり、夥しい変数を考慮して何十手先、何百手先を読む。当然、ブリュクスの行動も織りこりずみだ。あるいは、彼が〈茨の冠〉に乗っているのも、何か意味があるのかもしれない。修道院が何者かに壊滅的な打撃を受けて脱出ポッドを使うはめになったとき、両球派修道士ラッケットはブリュクスにこう告げていた。「神でさえもあらゆることを計画はできない。変数が多すぎる。とはいえ、心配は無用だ。計画できることはすべて計画した」

 自由意志のテーマは、ストーリーレベルではイカロス衛星網での異星知性との接触によって屈折し、同時に登場人物のあいだで交わされる議論によって深化する。とりわけ興味深いのは、リアンナが指摘する経験主義の終焉だ。彼女はブリュクスとの会話のなかで、次のように言う。「科学はもう限界にぶつかっていたのよ。あと何桁か進んだら、何もかも実験不可能な推測の領域に入ってしまうわ。数学と哲学。あなたもわたしも、現実に下部構造があることはわかっている。科学はそこに到達できない」。彼女は一足的に神秘主義へ行くわけではないが、ここに信仰の問題も絡んでくる。

 全篇にわたって、先行きがわからないまま場面が転換し、妙に捻った表現や文脈もさだかでないジャーゴンが頻出する。それでいて、さほど読みにくいと感じさせず、ストーリーがつながっていくのには、ちょっと驚きだ。こういうストーリーテリングもあるのか。ただし、イカロス衛星網到達以降は、やや混みってくる。把握しきれないようだったら、ためらうことなく下巻巻末におかれた渡邊利道さんの解説を参考にすること。この道案内があれば、結末まで迷わずにたどりつける。

(牧眞司)

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