議論と雑談

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議論と雑談

今回はメカAGさんのブログからご寄稿いただきました。

議論と雑談

世の中の人々は“議論”というものに、なにか幻想を持っているようで、やたら「正しい議論とは、こうでなければならない」とハードルを上げる。で、そうなると結局、気軽に議論ができなくなり、肝心のコミュニケーションが沈滞する。

しかたないので「これは議論ではなく、雑談だ」と言いわけして、議論をはじめる。議論ではないのだから、主張が支離滅裂でも根拠がなくていいわけだ(苦笑)。

こんな使い分け、俺は無意味だと思うのだけどね。そもそも議論が一貫した根拠のある主張でなければならない、というのが間違っているわけで、別にその場の思いつきであったり、主張が二転三転しても“議論”なのだ。

もちろんそういう議論を有意義と感じるかは人それぞれで、そんな相手と議論したくない、という人もいるだろう。しかし議論したくなくなるのは何もそういう理由ばかりではないわけで、一貫した根拠のある論理的な主張をする相手であっても、議論したくなくなることはある。

つまり“議論したくない”理由の本質ではないのだ。むしろ本当の理由を隠し、議論を拒否することの体裁を整える言いわけに使われている。誰でも「私はまともな議論なら逃げない」と、言い張りたいものだ。なので「もうこの相手との議論がいや」→「これはまともな議論ではない」とこじつけるわけだ。

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……と、それはそれとして、ここで議論と雑談の定義を披露してみたい。一般には議論とは上述のように根拠のある理論的な主張の論争であり、雑談とは逆にその場の思いつきを深く考えず気楽に語るものというイメージがある。

俺は別の定義を提案する。議論とは不愉快なもの、雑談とは心地よいもの、だ。

世の中には“(正しい)議論”とは“心地よいもの”という幻想を持っている人が少なくない。なので議論で不快な目に会うと「これは正しい議論ではない」「正しい議論にならなかったのは相手のせいだ」となる。

だがちょっと待ってほしい。議論が心地よいものだというのは、誰が決めたのだろう。議論とは本来不快なものではないのか。不快だからなるべく早く終わらそうと、効率のよい議論に努めるのだ。スポーツの試合とかも、気づいてない人がいるが、実は不快なのだ。

戦い続けるのは不快だからこそ、早く勝ちたいと思うのだ。「良い試合ができた」というのは、早く勝てたということなのだ。

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一方で雑談は心地よいものだ。いつまでも続けていたい。続けることが目的なのだ。これはたとえばスポーツでも得点や勝ち負けなどにこだわらず、ひたすらプレイするのにも似ている。昼休みにやるバトミントンは、相手が打ち返せるように打つ。

続けて打ち合うのが楽しいのであって、相手が打ち返せないような球(羽根)を打ってはいけない。草野球でも、相手チームが戦意喪失するほど打ち負かしてはいけない。楽しむのが目的だからだ。

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正しい議論は心地よいもの、という集団幻想はどこから始まったのだろう。確かに議論が終わり、異なる考えに接して自分の思考の幅が広がるのは、有意義であり“心地よい”と表現してもまんざら間違いではないかもしれない。しかしそれは議論そのもの(議論している最中)が心地よいということではない。

登山で頂上に立つのは心地良いかもしれないが、登っている最中は辛く苦しいのだ。みんなそれを取り違えているのではなかろうか。辛く苦しくないスポーツや登山があるだろうか? そう考えれば“正しい議論(心地良い議論)”という概念自体が、ナンセンスだとわかると思うのだが。

「議論をします」というのは、「これからお互い不愉快になりましょう」ということだ。不愉快さと引換にしてでも、あえて意見交換や意思決定をしたい人間同士が、“議論”をするのだ。だいたい自分の意見を否定されて嬉しいはずがないだろう。坂道を登るのが苦しくないわけないのと同じだ。議論に求めるもの、議論を通して得られるものは“心地よさ”ではないのだ。

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議論は勝ち負けではないとよく言う。スポーツは勝ち負けのゼロサムゲームだが、議論はお互いが協力して成果を生み出すものなのだ、と。俺はこの比較はおかしいと思う。スポーツでも互いの技術の向上はある。その意味では双方が得をしているわけだ。しかし試合中はあくまでゼロサムゲームだ。

議論も同じで、たしかに議論の成果はゼロサムゲームではない。片方では到達出来なかった思考領域に到達する手段が議論なのだ。しかしあくまでそれは成果物であり、議論をプレイしている最中は、ゼロサムゲームなのだと思う。互いに必死になって相手を打ち負かそうとすることでスポーツの技術が向上していくように、互いに相手を論破しようと努力することで、結果的に双方が成果物を得られる。

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追記2012-01-06

こんなツイートがあった。

「議論とは不愉快なもの、雑談とは心地よいもの」というのは、ちょっとわかるなあ。スポーツの例えはピンとこなかったけど。と言うより、議論が「互いに相手を論破しようと努力する」ものってのがピンとこないのか。

相手の主張を理解するというのは、相手の思考アルゴリズムを自分の思考アルゴリズムの一部にコピーすることであり、必ずアルゴリズムの分析が伴う。

スポーツでも勝つには相手の行動のアルゴリズムを分析しなければならない。相手の行動のアルゴリズムを自分の中にコピーすることで、相手の行動が予測可能になり勝つことができる。

“論破しようとする”という行為は、自分の中に作った相手の思考アルゴリズムのモデルと、実物の相手の思考アルゴリズムの差を比較・分析し両者を一致させようとすること。論破しようとすることで、どうしても論破できない部分(両者の差)が見えてくる。相手よりも相手の思考アルゴリズムを深く分析できて初めて論破できる。

単なる情報交換にはこれがない。議論を静的な情報(データ)の交換としか捉えていない人にはピンとこないかもしれない。理解とは情報(データ)のコピーではなく、プロセス(アルゴリズム)のコピーなのだ。

執筆: この記事はメカAGさんのブログからご寄稿いただきました。

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