SF作家のイマジネーションとAI研究の最新知見が出会う
人工知能学会はこれまでも学会誌に日本SF作家クラブ会員のショートショートを掲載するなどSFへの理解・関心を示してきたが、本書はさらに一歩踏みこんだ画期的な企画だ。AIをテーマとした書き下ろし小説と、それに呼応した内容のAI研究者のコラムが併載されている。俎上にあがっているのは「倫理」「社会」「政治」「信仰」「芸術」という5つの側面だ。
このうち、ぼくがもっとも身近に思えるのは「芸術」である。AI自体が創造性を持ちうるかどうかはまだわからないが、ITを創作活動に利用することはとうにおこなわれているし、技術的に考えればそこから芸術の自動生成まではほんの数ステップである。AIが内的な状態として創造性を備えているか否かにかかわらず、AIが出力した「作品」に接した鑑賞者が「創造性」を感じとってしまうのはじゅうぶんにあり得る。チューリングテストと同様だ。
本書に収められた倉田タカシ「再突入」は、そんな近未来を舞台にしている。通俗的なエンターテインメントを中心に、人間による創作はAIを用いて機械生成・機械選別された作品群に駆逐された。”ハイ・アート”の領域だけは、容易に模倣のきかない文脈の深さと多様性によって生きのびるが、その領域を守ろうという新しい人材があらわれない。そもそも「人間の芸術」に金を出そうという層が減っていったのだ。かつて富裕層は芸術を知ることに価値を見いだしていたが、その習慣が薄れた。
そのなかで、巨匠として知られた人物は企業をスポンサーにすることに活路を見いだす。パイは限られているため、表現領域の近いクリエーターを攻撃して芸術ビジネスを独占した。
笑えない話だ。ここに描かれているのは極端な状況だが、ごく少数の売れる作家ほどますます売れてその表現領域に君臨し、そこからこぼれた多数は淘汰されてしまう事態は現実にあらわれている。
倉田タカシは、悲観的な状況のなか、徒花のような芸術を設定してみせる。人間の巨匠が編みだしたのは、軌道上から物体を大気圏へ落とす〈再突入芸術〉だった。壮大な一回性の体験がその価値であり、何をどのように落とすかのコンセプトこそが独創だ。巨匠の最後の作品は、自分の葬儀を〈再突入芸術〉でおこなうことだった。
この小説は、巨匠の葬儀/遺作を現在進行形で描きながら、カットバックで晩年の巨匠がある若者と交わしたやりとりが挿入される。若者が語るのは、かつて巨匠のライバル(?)であった幻視者の消息だ。幻視者は巨匠とはまったく異なる芸術の可能性に挑戦していた。情報技術の発展はAIに創作性を持たせることへ向かったが、幻視者は観賞をラディカルに更新しようとしたのだ。前者が「人間性の模倣」なのに対し、後者は「人間性の超克」である。そして、物語の終盤にはAIテーマとは別のSF的ヴィジョンが浮上する。ここで詳しく明かすことはできないが、倉田タカシの第一長篇『母になる、石の礫(つぶて)で』とも共振する。
倉田作品と対をなすのは、松原仁の論考「芸術と人間と人工知能」だ。松原さんはAIによる作品を日経「星新一賞」に送りこむ「きまぐれ人工知能プロジェクト 作家ですのよ」の主導者であり、このプロジェクトの経緯にもふれている。さらに「再突入」を踏まえて、こう述べるのだ。
将来は人工知能の審美眼が人間のそれに追いつき追い越すかもしれない(文学賞の審査員を人工知能が務めるようになるかもしれない)。であれば人工知能によって高く評価されるのが人間にとってうれしいことになる。人間には評価されなくとも、人工知能には評価されるという芸術があってもおかしくない。
この発想は面白い。「きまぐれ人工知能プロジェクト 評論家ですのよ」とか「書評家ですのよ」もいいかもしれない。
「再突入」はヴィジョンの大きさで出色だったが、藤井太洋「第二内戦」はアイデアの面白さとストーリーテリングで際立っている。トリッキイな小道具のリアリティはこの作家のトレードマークだが、本作には〈ライブラ〉なる証券取引実行AIが登場する。〈ライブラ〉が凄いのはアルゴリズムではなく、その速さである。10ギガビットの端子に搭載され、これをサーバーにつなぐと、通信データがCPUに届く前に先読みして処理をおこなう。コネクタからCPUまでは数マイクロ秒だが、この時間を稼ぐだけで利益が確保できるのが生き馬の目を抜くトレーディングの世界である。
ニューヨーク証券取引所が開発したこの〈ライブラ〉が外部に流出しているらしい。その調査がブルックリンのタフな探偵ハル・マンセルマンに任される。やっかいなのはその流出先だ。もうひとつのアメリカ—-アメリカ自由連邦(FSA)なのである。2020年、合衆国初の女性大統領が銃規制法案を唱えたことがきっかけになり、これに反発する運動がテキサスからはじまり、アメリカを二分した内戦状態へと発展した。FSAは「すべての市民に銃を」を政策とするアメリカ中央部十七州。合衆国にとどまった残りの州は東西に分断されたかたちだ。
ハルは証券取引所のアンナ・ミヤケ博士をともない、FSAの本丸ダラスへ潜入する。しかし、全般に保守的で証券取引所へのタブレット持ちこみすら禁じているFSAで〈ライブラ〉がどう使われているのか? 物語はアンナと父(FSAの要人)との確執をまじえながら、FSA繁栄の秘密へと迫り、ハルは思わぬかたちでのAIの進化に立ちあうことになる。
藤井作品に対応するのが、栗原聡の論考「人を超える人工知能は如何にして生まれるのか?」だ。かつてのSFでは巨大コンピュータ型の人工頭脳がしばしば描かれたものだが、栗原さんは集合体型の知性について論じる。たとえば蟻だ。個々の蟻は群全体において自分がどのような役割を演じているかを知らずに行動しているにもかかわらず、集団全体としては最適性のある行動が達成される。人間の脳も神経細胞の集合とみれば、同様の挙動をしている。「第二内戦」の〈ライブラ〉がそうした集合型の存在ならば、その総体が創発するものは何か?
ほかの収録作品についてふれる余裕がなくなってしまったが、どれも読み応えたっぷりだ。
長谷敏司「仕事がいつまで経っても終わらない件」は、政治におけるAI利用を扱ったサタイア。世論のような人間的常識を人工知能で扱うのは至難だが、プロジェクトを請け負った意味解析技術の権威、磐梯教授は涼しい顔で「仕様でカバーできるだろう」と言い放つ。その仕様とは……。
早瀬耕「眠れぬ夜のスクリーニング」は、AIが持ちうる差別意識/被差別意識を扱ったサスペンスフルな一篇。語り手が仕事上の抑鬱状態から、周囲にいる何人かが精巧にできたアンドロイドでないかと疑う導入部分は、フィリップ・K・ディックを思わせる。
吉上亮「塋域(えいいき)の偽聖者」は、大破局と呼ばれる事態をきっかけとして、外界との交流がほぼなくなった〈塋域〉が舞台。〈塋域〉の住民たちはこの地域の除染作業に従事しており、それを統轄する高次AIが信仰の対象となっている。この遠未来物語のあいまに、原発事故後のチェリノブイリで観光ガイドをしている男のエピソードが挟まるのだが、それがどうつながっているか終盤までわからない。凝った構成の作品だ。
(牧眞司)
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