懐かしくて新しい逸木裕のデビュー作『虹を待つ彼女』
コンピュータ・ソフトと棋士の対決。
恋愛も可能なほどに自然な返答を返す人工知能。
ドローンによる遠隔殺人。
こうやって要素を並べていくと、最近よくあるトピックを並べただけの平凡なスリラーに見える。「いわゆる情報小説?」なんて尻上がりの調子で言ってしまいそうな感じ。
でも、違うんだな。
第36回横溝正史ミステリ大賞を受賞した逸木裕のデビュー作『虹を待つ彼女』は、そんなありきたりの小説ではないのである。要素の新規性だけに頼った小説ではなく、中心には古くて懐かしいテーマが据えられている。新しい革袋に入れるといいのは新しい酒だけじゃない、古い酒を注いだってなかなか味わい深いんですよ、ということだ。
小説の舞台となるのは2020年、ちょっと未来の話なのである。でも最初、物語の時計は2014年12月24日に合わせられる。水科晴という女性がその日に亡くなったからだ。個人で開発したオンライン・ゲームがプレイヤーたちのカルト的な支持を集めていた晴は、そのゲームによって自らを殺した。
彼女の作った『リビングデッド・渋谷』は、日本有数の人口密度を誇る繁華街を戦場として、群がるゾンビと闘うアクションゲームである。運命の日、晴は優秀なプレイヤーを特別ステージへと招待した。彼らが選択できるのはドローンだけだ。そして、その自機の一つは銃を搭載した現実のドローンと連動していたのである。晴の狙いは、ゲーム中のゾンビの一体として、プレイヤーに自分を撃たせることだった。
それから6年後の2020年、工藤賢という男が謎に包まれた晴の生涯を調べ始める。彼が役員を勤めているベンチャー企業・モンスターブレインではフリクトという人工知能を有力アイテムの1つとして開発していた。それが諸事情から暗礁に乗り上げそうになったのだ。打開策として工藤が提案されたのが、無から有を作り上げるのではなく、過去に存在した人、すなわち故人を人工知能として蘇らせるという新機軸だった。愛する人に蘇ってもらいたいと願う人は多いはずで、そうした層への訴求力があるのではないか。話に乗った工藤は、宣伝効果抜群な試作機として水科晴の人工知能化に着手したのだった。
情報科学技術を扱った小説というと敷居の高い印象があるが、本書に限ってはそういう心配は無用である。たとえば人工知能の限界について語った序盤の文章、人間の力を借りずに自発的に考え、新しいものを生み出していく「超知性」と現時点の人工知能との違いについて、作者は工藤と友人の会話を借りて平明に説明し、読者に理解させてしまう。必要とされるのは、言うなればパソコンやスマートフォンをWI-FIに自力で接続できるレベルの知識にすぎず、ほとんどの人はストレスなく物語の中に没入していけるはずだ。それが本書の「新しい革袋」にあたる部分である。
では「古い酒」とは何か。
工藤は余技として作ったプログラムで囲碁の本職を打ち負かしてしまうような、つまり情報科学における天才だ。だが、余人にはない頭脳を持つということは、他の誰も自分と同じ領域には達することができないという孤独を抱えるのと同義でもある。親友と呼べる存在はなく、家族にさえ本心を明かすことがない。そうした人物を動いていく状況に投げ込み、緊迫した事態の中でも、あるいは過去にない発見や出会いがあったときでも、同じように冷静な工藤賢でいられるか、という関心が本書の中心にある。外形こそ21世紀の情報科学の話題で強化されているが、実はその中にあるのは昔ながらの性格悲(あるいは喜)劇なのだ。
プロローグとエピローグを除けば、全体は三部構成になっている。工藤が水科晴を探し始める第一部は、尋ね人を探して主人公が街を歩く私立探偵小説のようだ。その探索行が何者かを刺激し、工藤が謎の影に命を狙われるようになる第二部は巻き込まれ型サスペンスの雰囲気である。そうした形で、物語の雰囲気が少しずつ変化するという楽しみも本書にはある。話の結節点には小さな謎解きが準備されていて、その興味で読者は引っ張られる。だから無理なく次の展開へと進むことができるのだ。
第三部は本書の中核をなすパートなので、何が描かれるのかは書かずにおく。ここでの主題は工藤が自身と向き合うことにある。堅牢さを誇っていたはずの男が自我の崩壊する瞬間を体験するのだ。精神の外殻が壊れ、生の身体で世界の揺らぎを体験する小説。ジム・トンプスン『残酷な夜』ほどに先鋭的ではないが、ジェイムズ・ハドリー・チェイスの小気味いいスリラー(『幸いなるかな、貧しき者』とか『あぶく銭は身につかない』あたりの)がお好きな方にはたまらないのがこの第三部だと思う。ああ、ウィリアム・アイリッシュ『死者との結婚』あたりの要素もあるか。
暗く、そして甘い味を楽しんでください。
(杉江松恋)
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