悪夢の中のような非論理の論理『ラスト・ウェイ・アウト』
本書を以下の3タイプの読者に捧げたい。
すなわち—-。
・いわゆる〈藪の中〉タイプの、一つの出来事が複数の証言によって多面性を帯び真相が見えなくなっていく小説や、多重解決を有するミステリーがお好きな方。
・英語圏だけでは飽き足らず、さまざまな言語圏のミステリーを渉猟しておられる方。
・オポッサムが好きな方。
の3タイプである。いや、どれにも属さない、という人もぜひ読んでもらいたいのだが。フェデリコ・アシャット『ラスト・ウェイ・アウト』(ハヤカワ・ミステリ文庫)は約600ページと大部だが、それにふさわしい内容を備えた作品である。
物語は不穏な始まり方をする。会社経営者のセオドア(テッド)・マッケイは、家族が旅行中で留守にしている間に、自らの人生に幕を引こうとしていた。こめかみに弾丸を撃ち込もうとしていたまさにその瞬間、玄関の呼び鈴が鳴る。間の悪い物売りか何かだろうか。招かれざる来訪者は一向に帰ろうとせず、中にいるのはわかっています、などと叫び出す。そのとき、机の上に置かれた紙片がマッケイの目に入った。まったく覚えがない。しかし、間違いなく自分自身の筆跡で、そこにはこう書かれていた。
ドアを開けろ
これがおまえの最終出口だ
何がなんだかわからなくなったマッケイは、立っていって玄関の扉を開けてしまう。
なんだこりゃ、と思うでしょう。裏表紙のあらすじにはもう少し先のことまで書かれているが、紹介はここまでにしておきたい。何しろ厚かましい来訪者がマッケイに持ち掛けたとんでもない話というのは……いやいや、やっぱりここまでだ。
ネタばらしにならない程度にこの先の展望について触れておく。最初のほうに書いたことでわかるとおり、本書には反復の要素がある。ある出来事が繰り返し検討されるが、そのために却って何が起きたのかわからなくなるわけである。その反復の仕方には芸があるものの先例がないわけではない。ミステリーを読み慣れた読者ならば、ははぁ、あの手かな、と見当がつくはずだ。その通りかもしれない。しかし先の展開を読んだつもりになっていても、あなたは途中で絶対に驚かされるはずである。それまであった足場がなくなるような瞬間があるはずだ。遠浅の海と思って進んでいたら突然深くなってしまう海のようなもので、もがいて見当識を失わないように気を付けないといけない。この読者に不信感を抱かせるようなやり方は、ダン・ブラウンが『ダ・ヴィンチ・コード』で執った手法に似ている。
しかも「びっくり」だけではなくて「ふむふむ」もあるから油断ならない。中盤以降は次々に新しい可能性が提示されていく展開になるのだが、そこではちゃんと既出の手がかりを元にした推論が提示される。どんでん返しというよりは、レゴで建造物を作る過程で、少しずつ前に積んだブロックの位置を変えていくようなスクラップ・アンド・ビルドが行われるのである。ここが間違いなく謎解きミステリー好きな読者の琴線に触れるはずだ。
登場人物はアメリカ人なのだが、これを書いたのはアルゼンチンの作家である。訳者あとがきによれば、アシャットには米国在住歴があり、アメリカ作家であるスティーヴン・キングとマイクル・コナリーがお気に入りの作家なのだという。小説はこれで四作目だというが、本書の他にはどんな作品を書いているのか無性に気になる。とても量産可能な作風には見えないからだ。話運びは複線的であり、時として迷路のようにどこに行くのかわからない道筋まで出てくるのが楽しい。月並みな表現ではあるが、悪夢の中のような非論理の論理、可塑性のある世界観が用いられた作品なのである。
というわけで、広くお薦めしたい次第。あ、最初に書いた中で一点だけ訂正がある。もしかするとオポッサム好きな方は読まないほうがいいのかもしれない。本書の重要なモチーフはチェスだが、同等か、それ以上の比重を持つ小道具としてオポッサムが登場する。
なぜ、オポッサム?
でも、オポッサムなのだ。オポッサム、オポッサム。
(杉江松恋)
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