きらきらネームは遠い将来が想像できないDQN親とハリウッドセレブの特権なのか?

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今回は大原ケイさんのブログ『Books and the City』からご寄稿いただきました。

きらきらネームは遠い将来が想像できないDQN親とハリウッドセレブの特権なのか?―Lack of imagination leads to imaginative baby names?

『Twitter』のタイムラインを眺めていると、ときどき“きらきらネーム”“DQNネーム”のことが話題に上がる。変わってて普通には読めない名前と遭遇した人が「こんな名前の人がいたよ」とつぶやいたりすると、たいていは「ゼッタイ読めねー」「かわいそう」「親がバカ」「将来こまるんじゃね?」「就職に不利らしい」みたいなリアクションが出て終わるのだが、今回、ピンときたつぶやきに「そういうのって、親がこんな大人になって欲しい、じゃなくて、こんな子どもになってほしいと思って付けるらしい」というのがあった。これにはフムフム、と納得。さらに考えついたのは、きらきらネームをつけてしまうのは、子どもの将来を具体的に想像できない親の経済環境のせいではないだろうかということだ。

この自説を説明させてもらうのに、ちょっと70~80年ぐらい時間をさかのぼって考えてみる。日本という国がまだ貧乏で、政府主導の元に“富国強兵”が推進され、産めよ増やせよで、日本のお父ちゃんもお母ちゃんも“貧乏子だくさん”がデフォだった時代。男なら、上から太郎、二郎、三郎、四郎とか、女なら長女が一二三で次女が二三四、みたいな「どうせ来年も次のが産まれるんだから、とりあえず順番が分かるようにつけとけ」ぐらいの感覚だったんだろうね。

ちょうど今、同じように経済が上向きで国が一体となって経済力を付けようという状況にあるインドで「また、女が産まれちゃった」ってなシチュエーションで付けられる“Nakusha(要らない子)”という名前のインド人女性が改名を求めてクラスアクション裁判を起こしているというニュース*1 があったばかり。ということは何も日本限定の現象ではないのだろう。

*1:「インドで「いらない子」と名付けられた女の子達が一斉に改名する」2011年10月25日『らばQ』
http://labaq.com/archives/51708532.html

その後、経済状態が向上して、出生率が下がると、自分の子供に名前を付ける、というオケージョンが一生に数回しかない行事になるので、名付けが大切な儀式になってくるのは当たり前。豊かな国では太郎も一二三もナシね。気合いが違う。

高度成長期のニッポンでは、学校出たら集団就職、出会いはお見合い結婚、会社は年功序列、夢はマイホームなど、男女の人生にあるていど限られた“普通の幸せ”の一定パターンがあったと思う。要するに、赤ちゃんが生まれた時点で、親の生活が安定している、あるいはこれからも安定しているだろうという展望がある。だからこそ、そこから数十年も先の将来像が、かなり具体的に想像できるわけだ。例えば、男の子が産まれたら、よし、お父さん定年まで同じ会社でがんばって働いて、お母さんは教育ママになって、息子を大学まで入れてやって、うまくいけば大企業に就職し、またニッポンを支えていく働き蜂の一員になって、ちょっと年下の可愛くて家事が上手な嫁さんをもらい、少ししたら孫の顔を見せてくれるだろう、という楽観的な、そしてワンパターンな希望。

そんな時代の名前のイメージとしては、豊とか、敏志とか、健司とか、隆明とか、博幸とか、政則とか。男の子の場合、父親や祖父の名前の一字をとる、というパターンも多いかも。これは曲がりなりにも祖父から父へ、父から息子へと“イエ”が継がれて、鎖のように連綿と続く長いスパンで家族というものを考えられるからこそだろう。

一方、これが女の子だったら、短大ぐらいは出してやって、事務職OLとして大企業で数年働いた後、そこで知り合ったサラリーマンの家に嫁ぎ、専業主婦となって、盆と正月には孫を連れて実家に帰ってきて……と同じようなパターンの安定した将来がそこにはある。イメージとしては、幸子とか、慶子とか、由美子とか、宏美とか、美幸とか、真由美とか、聡美とか、要するに私と同世代に多い名前。

日本の経済が上向きで、お父さんは定年退職するまでずっと同じ会社で働くことができそうだし、だからこそマイホームを持つことができたし、お母さんは専業主婦で後は二人で悠々年金生活があるのだと信じられた時代の話だ。

ところが、バブルがはじけ、そんなお気楽な長期展望はなくなってしまった。学校を出てもろくな仕事がないかもしれない、仕事があっても明日リストラされるかもしれない、婚活しても理想の相手なんてみつからないかもしれない、がんばって支払ったところで年金が出るかどうかも分からないという、予想のできない未来だ。

ミスチルの『Tomorrow Never Knows』って歌いたくもなるぜ、な人生。具体的な未来にピンとこないというのはポップソングの歌詞にも現れていると思う。最近の若者が歌う歌には“夢”という言葉が頻繁に出てくるけど、それが具体的にどういう夢なのか、聴いていてもさっぱりわからない。とりあえず夢だけは捨てるな、みたいな歌が多くないか? それに比べると、昭和の夢は具体的だったよ。相手がまだ見つかる前から「♪もしも私が家を建てたなら」って、間取りや飼う犬まで決まっている夢なんだぜ。すげーだろ。

きらきらネームの話にもどすと、今の時代、二十歳そこそこでまだ自分も大人になりきれていないような人たちが人の親になった時、生まれた赤ちゃんに対して、これから数十年、この子が大人になったとき世の中がどうなっているのか、自分たちがその時、どんな暮らしをしているのかをきちんと具体的に想像するのはとっても難しいことに違いない。
せいぜい想像力が及ぶのが片手で数えられるぐらいの年数でしかなかったら? 保育園や幼稚園にやるぐらいの時までは、今の生活を続けることができるかもしれない、でもその先は、自分に職があるのか、今の生活を続けていける収入があるのか、孫の面倒を見てくれる親は健在なのか、今の相手と結婚したままなのかさえもおぼつかないのに、どうやって子供が成人し、自分たちが年老いたときの生活が想像できるだろう?

だから、幼稚園児ならそんな名前もありかな、ぐらいの気持ちできらきらネームを付けるのではなかろうか?
母親が幼稚園のお迎えに行って、「変わった名前ね」と同じぐらいの歳のママ友や保育士さんに言われて、自分の思い入れを語りながら説明するぐらいなら想像できる。父親がバイト先で同僚に「オレ子どもが産まれたんだぜ」って言って、名前の由来を話すことぐらいなら想像できる。光宙(ぴかちゅう)くんとか、美妃(みっふぃー)ちゃんって、そういうことなんじゃないかな? 一寸先は闇、だからせめて今はきらきら。

でも、その子がこれから一生、大きくなって学校に行ってクラス替えの度に、そしてそれからずっと社会に出てからも、結婚相手を探すときも、自分で自己紹介をする度に、相手に「え? 読めない」「へぇ~、変わってるね(プっ)」と言われながら説明しなければならないことまでは想像できないわけだ。

そしてそんな親から産まれた子が人生の勝者になれるとしたら、宝くじをあてるとか、アイドルになるとか、普通に考えたら“夢物語”みたいな低い確率の何かで一発逆転するしかない。だから夢を捨てることはそのまま今の不安定な人生を受け入れることを意味する。だからそんな歌はうたえないわけだ。親は親で、子どもに対してそんなフィクションっぽい人生を願うから、アニメキャラにちなんだり唯一無二の変わった名前を付けるんでは? と推測するわけだ。

つまり、日本の経済がどうにか回復して不況を脱しない限り、これからもDQNネームの子は増え続けるものと思われます。

じゃあ、アメリカにはDQNネームはないのかよ? といえば、実はある。

大雑把に言えば、男の子の名前は昔からあまりトレンドがなくて、マイケル、ジョン、トム、ビル、ジム、ジョー、リチャード、スティーブ、ブライアン、エドワード、チャールズ、ジェイソン、ジェイコブ、ジェラルド、ジョージ、ゲイリー、ダニエル、アンソニー、ぐらいでほとんどの世代は埋まるだろ。

女の子の名前には、オーソドックスながら緩やかなトレンドがあって、ハリエットやジョアンナ、ヴァイオレット、イヴォンヌ、と聞けば「おばあさん」のイメージだし、私と同世代はジェニファー、キンバリー、リンダあたりがやたら多い。それがティファニーや、アシュリー、ブリッタニーと聞くと一回り下の女の子が浮かぶ。時代を全く選ばないエリザベスというロングセラーもあるが。

今、子供に一風変わった名前を付けているのは、お茶会連中の若い世代、日本のヤンキーな親たちと全く同じだ。赤い州のトレーラーハウスに住んで、ウォルマートで買い物し、ジャンクフードをがばがば食べてぶくぶく太り、一日中リアリティー番組ばっかり見ていて、進化論を否定するような人たち。

さすがに日本と違って、漢字と読み方が全く一致しないという文字通りの“離れ”ワザは使えないので、発音だけ聞くとありがちな名前なのに、つづりが変わっている、というか、もしかして親がバカで正しい(一般的な)つづりがわからなかったんじゃないの? というような名前が主流。アシュリーだったら Ashleyと普通につづらないでAshleeとか、Jordanだったらオーソドックスなんだけど、ひねってJaydenとか。そのうえ、今まで聞いたこともないような名前も出てきた。ネヴェーアNeveahとか。これって“天国”を反対からつづったものだとか。天国の反対っていえば、地獄じゃねーか、というツッコミを入れたくなる。

アメリカンきらきらネームを探して少し歴史を遡ると、60年代に青春をヒッピーとして謳歌した世代は、子どもにRainとか、Skyとか、自然にちなんだ名前をつけるのが流行った。これはネイティブ・インディアンにも通じるからかな。ちなみに有名人で言うと、リバー・フィニックスの親たちがそう。リバーが長男で、ホアキン、リバティー、サマーって兄弟になってたり。女優バーバラ・ハーシーの息子がフリー、なんてのは典型だね。

ハリウッドのセレブが率先して変わった名前を付けているという側面もある。グウィネス・パルトローのAppleちゃんとか、トム・クルーズのSuriちゃんとか、クリスティーナ・アギレラのマックス・リロンくんとか、ニコラス・ケージのKal-el(まんまスーパーマンだよw)、その手の話題が好きな人はこちらのリスト*2 をどうぞ。

*2:「Celebrity Baby Names」『infoplease』
http://www.infoplease.com/spot/celebrity-baby-names.html

なぜ、レッドネックのみなさんとは違うはずのセレブまで? と思うかも知れない。そういえば、アメリカ各地で続行中の“オキュパイ運動”が理解できない人たちの中には、「同じ1%の金持ちに対してデモするなら、サンセットブルバードのセレブたちの家にも行け」という意見もあるけれど、個人的にはこれはかなり的外れだと思う。
元々ハリウッド業界の人たちは、労組も強いし、リベラルな考えの人も多いので、デモクラッツ寄りということもある。そして何より、“一寸先は闇”という点では、アメリカDQNの人たちとあまり変わらなかったりする。ハリウッドのセレブの中には途方もないお金持ちもいるが、所詮は体を張っての肉体労働、しかも人気稼業なので、いつゴージャスな暮らしからドン底まで転げ落ちるかわからない。しかも子どもを産んでも、小さい頃から人目に晒されること以外に何の保証もない。ドラッグに溺れたりしてぐれやすい。セレブであればあるほど、これから地道に何十年も子育てに費やすような人生設計は立てられない。“普通の幸せ”からは最初から縁遠い。だからきらきらネームをつけちゃうんだね。
まぁ、そんなことを考えてみたんだけど、どーでしょ?

執筆: この記事は大原ケイさんのブログ『Books and the City』からご寄稿いただきました。

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