格差と若者の非活動性について

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内田樹の研究室

今回は内田樹さんのブログ『内田樹の研究室』からご寄稿いただきました。

格差と若者の非活動性について

ある媒体から若者の労働観についてアンケートを受けた。
みじかい回答を期待していたはずだが、やたら長くなってしまったので、たぶんこのままでは掲載されないだろう。
自分としてはたいせつなことを書いたつもりなので、ここに転載して、諸賢のご叱正を乞うのである。

Q1.現在、世界では、経済格差(世代間格差ではなく、金持ちとそうではない人との格差)や社会への不満に対して、多くの若者たちが声を上げ、デモを起こし、自分たちの意見を社会に訴えようと行動しています。翻って日本ではここ数十年、目に見える形での若者の社会的行動はほとんど見られません。これだけ若者たちにしわ寄せが行く社会になっているのに、そして政策的にも若年層に不利な方向で進んでいるのに、若者たちはなぜ、社会に対して何かを訴えたり行動したりしないのでしょうか? それは特に不満を感じていないからなのか、それともそうした行動に対して冷めているのか。あるいは社会的に連帯するという行為ができないのか。ネットにはけ口が向かっているだけなのか。内田さんはどのようにお考えでしょうか?

マルクスの『共産党宣言』の最後の言葉は「万国のプロレタリア、団結せよ」でした。革命を呼号したパンフレットの最後の言葉がもし「打倒せよ」や「破壊せよ」であったとしたら、マルクス主義の運動はその後あのような広範なひろがりを見せたかどうか、私は懐疑的です。マルクスの思想的天才性は、彼が社会のラディカルな変革は「なによりもまず弱者たちが連帯し、団結するところから始めなければならない」ということを直観したこと、最初のスローガンに「戦え」ではなく、「連帯せよ」を選択した点にあると私は思っています。
今の日本の若者たちが格差の拡大に対して、弱者の切り捨てに対して効果的な抵抗を組織できないでいるのは、彼らが“連帯の作法”というものを見失ってしまったからです。どうやって同じ歴史的状況を生きている、利害をともにする同胞たちと連帯すればよいのか、その方法を知らないのです。
それは彼らの責任ではありません。それは私たちの社会がこの30年間にわたって彼らに刷り込んできた“イデオロギー”帰結だからです。
彼らが教え込まれたのは「能力のあるもの、努力をしたものはそれにふさわしい報酬を受け取る権利がある。能力のないもの、努力を怠ったものはそれにふさわしい罰を受けるべきである」という“人参と鞭”の教育戦略です。
数値的に示される外形的な格付け基準に基づいて、ひとに報償を与えたり、処罰を加えたりすれば、すべての人間は“報償を求め、処罰を恐れて”その潜在能力を最大化するであろうというきわめて一面的な人間観を土台とする、この“能力主義”“成果主義”“数値主義”が“弱者の連帯”という発想も、そのための能力も深く損なってしまった。私はそう考えています。
弱者たちの権利請求のうちに「能力のないもの、努力を怠るものと格付けされたものであっても、人間としての尊厳を認めるべきだ」という言葉はほとんど見ることができません。比較的戦闘的な反格差論者が口にするのは「バカで強欲な老人たちが社会的資源を独占し、若者たちは能力があり、努力をしているにもかかわらず格付けが低い。これはフェアではない」というものです。それは「能力がなく、努力もしていない人間は(老人であれ若者であれ)低い格付けをされるのは当たり前だ」という“イデオロギー”に対する暗黙の同意を言外に含んでいます。彼らは連帯を求めているわけではなく、“社会のより適切な能力主義的再編”を要求しているのです。
ですから、“フェアネス”を求めている若者たちのうちの一人がたまたま社会的上昇を遂げた場合に、成功した若者には“いまだ社会下層にとどまっている仲間”を救う義務は発生しないということになります。だって、彼が成功したという事実からして、社会の能力主義的格付けは“部分的には正しく機能している”からです。若者たちの多くは格差に苦しんでいるけれど、一部の若者は成功している。そして、成功した若者たちはそれをまったくの偶然だとは思わず、「きわだった才能を見落とさないほどには社会的な格付けは機能している」というふうに判断している。はなやかな社会的上昇を遂げた“勝ち抜け”組は自分たちが“勝ち抜け”したという当の事実から推して、階層下位に釘付けにされた若者には能力や努力が足りないからだという結論に簡単に飛びついてしまう。
私たちの社会においては、若者たちの集団を組織し、思想的に教化指導し、政治目標を設定できるレベルの知的能力をもつものは「システマティックに社会上位に釣り上げられる」。そのようにして若者の連帯は制度的に不可能にされている。それが僕の見方です。

Q2 .そもそも、賃金の低さや高い失業率(正社員になれないことも含め)、世代間の不平等などについて、今の若者たちはどのように感じているのでしょうか。怒り? あきらめ? それともあまり関心がない? あるいは別に不自由していない?

Q1の答えにある通りです。世代間の不平等については激しい発言をする若者たちも、同世代間に発生している格差については押し黙っている。それは能力主義的な思想が彼らに深く内面化しているからです。若者たちは資源配分のアンフェアに怒っているのではなく、「(それなりの能力をもつ)私に対する評価がフェアではない」という点について怒っているわけです。だから“能力のある人間が抜擢され、無能な人間が冷遇されるのは当たり前”という格差を生み出す発想そのものには異議を唱えていない。
ご質問にお答えするなら、世代間の不公平については“怒り”を感じ、同世代間の不公平については“あきらめ”を感じ、そのような社会的不備の原因を質し、解決策を講じるということについては“無関心”を感じている、ということになると思います。
繰り返し言うように、私はそれが彼らの責任であるとは思っていません。そのような“イデオロギー”を刷り込んだのは社会全体の、あえて言えば、私たちの世代の責任です。ですから、私たちの世代は、それを“解毒”する社会的責任を負っている。それが日本社会の急務だろうと思います。
格差が進行している最大の理由は“社会上層にいる人間たち”がその特権を自分の才能と自己努力に対する報酬であり、それゆえ誰ともわかちあうべきではないと信じ込んでいる点にあります。
能力や努力(できる能力)というのははっきり言って先天的なものです。“背が高い”とか“視力がよい”とか“鼻がきく”というのと同じ種類の天賦の資質です。それは天からの“贈り物”です。自分の私有物ではない。だから、独占してはならない。
能力というのは“入会地”のようなもの、みんなが公共的に利用するものです。それがたまたまある個人に“天が授けた”。
だから、背が高い人は高いところにあるものを手の届かない人のために取ってあげる。眼の良い人は嵐の接近や“陸地が見えた”ことをいちはやく知らせる。鼻のきく人が火事の発生に気づいて警鐘を鳴らす。そのようにして天賦の能力は“同胞のため”に用いるべきものなのです。
19世紀まで、マルクスの時代まで「団結せよ」という言葉が有効だったのは、マルクス自身が自分の天才を“天賦のもの”だと自覚していたからです。その稟質を利用すれば、マルクスならドイツの“既成制度”の中で、政治家や法曹や大学教授やジャーナリストとしてはなやかな成功を収めることだってできたはずです。でも、マルクスはそうしなかった。自分のこの“現世的成功確実な頭の良さ”を苦しむ弱者のために捧げなければならないと思った。それは倫理の問題というよりは、「能力とは何か?」という問題についての答えの出し方の違いによるのだと私は思います。マルクスは自分の才能を“万人とわかちあう公共財産のようなもの”だと見なしていた。それはたぶん遠い淵源をたどれば、一神教的な人間観に基礎づけられたものでしょう。

Q3・内田さんはかつて『下流志向』のなかで、“働かない若者たち”について指摘されました。“働かない”結果としての低賃金(あるいは格差といってもいいかもしれません)があるとすれば、なぜ、そのような若者が生み出されていったのでしょうか? なぜ、若者は働かなくなったのでしょうか。それは社会構造としてそうなってきているのでしょうか、それとも若者の考え方、精神構造の変化によってそうなっているのでしょうか?
最初の質問とも関連しますが、なぜ、若者は、そうなってしまったのでしょうか?

若者が働かなくなったのは“努力すれば報償が与えられる”という枠組みそのものに対する直感的な懐疑のせいだろうと思います。「みんなが争って求めている“報償”というのは、そんなにたいしたものなのか?」という疑念にとらえられているのです。一流大学を出て、一流企業に勤めて、35年ローンで家を建てて、年金もらうようになったら“蕎麦打ち”をするような人生を“報償”として示されてもあまり労働の動機付けが高まらない。努力すれば“いいこと”があるよ、というタイプの利益誘導の最大の難点は、示された“いいこと”がさっぱり魅力的ではないという場合に、誰も努力しなくなってしまうということです。
私たちの社会は利益誘導によって学習努力、就業努力を動機づけようとしてきました。それが作り出したのがこの“働かない若者たち”です。
人間は自己利益のためにはあまり真剣にならない。これは多くの人が見落としている重大な真実です。
自己利益は自分にしかかかわらない。「オレはいいよ、そんなの」というなげやりな気分ひとつで人間は努力を止めてしまう。簡単なんです。
人間が努力をするのは、それが“自分のため”だからではありません。“他の人のため”に働くときです。ぎりぎりに追い詰められたときに、それが自分の利益だけにかかわることなら、人間はわりとあっさり努力を放棄してしまいます。「私が努力を放棄しても、困るのは私だけだ」からです。でも、もし自分が努力を止めてしまったら、それで誰かが深く苦しみ、傷つくことになると思ったら、人間は簡単には努力を止められない。自分のために戦う人間は弱く、守るものがいる人間は強い。これは経験的にはきわめて蓋然性の高い命題です。「オレがここで死んでも困るのはオレだけだ」と思う人間と、「“彼ら”のためにも、オレはこんなところで死ぬわけにはゆかない」と思う人間では、ぎりぎりの局面でのふんばり方がまるで違う。
それは社会的能力の開発においても変わりません。自分のために、自分ひとりの立身出世や快楽のために生きている人間は自分の社会的能力の開発をすぐに止めてしまう。「まあ、こんなもんでいいよ」と思ったら、そこで止まる。でも、他人の人生を背負っている人間はそうはゆかない。
人間は自己利益を排他的に追求できるときではなく、自分が“ひとのために役立っている”と思えたときにその潜在能力を爆発的に開花させる。これは長く教育現場にいた人間として骨身にしみた経験知です。
でも、「こんな当たり前のこと」をきっぱりと語る人間は今の日本では少数派です。圧倒的多数は「人間は競争に勝つために徹底的にエゴイスティックにふるまうことで能力を開花させる」という、(今となっては、ウォール街以外では)十分な経験的基礎づけを持っていない“イデオロギー”を信じている。
日本の若者が非活性的なのは、「自己利益の追求に励め。競争相手を蹴落として社会上層に這い上がれ」というアオリが無効だったからです。  
「連帯せよ」とマルクスは言いました。
それは自分の隣人の、自分の同胞をも自分自身と同じように配慮できるような人間になれ、ということだと私は理解しています。そのために社会制度を改革することが必要なら好きなように改革すればいい。でも、根本にあるのは、「自分にたまたま与えられた天賦の資質は共有されねばならない」という“被贈与感”です。そこからしか連帯と社会のラディカルな改革は始まらない。
今の日本社会に致命的に欠けているのは、“他者への気づかい”が“隣人への愛”が人間のパフォーマンスを最大化するという人類と同じだけ古い知見です。

執筆: この記事は内田樹さんのブログ『内田樹の研究室』からご寄稿いただきました。

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