壮大な復讐劇の背後で、多様な価値観が複雑に交錯する

壮大な復讐劇の背後で、多様な価値観が複雑に交錯する

 こんなに綾のある小説だったのか! 新訳なった『デューン 砂の惑星』を読み、それまでの印象がかなり塗りかえられてしまった。訳文の良さ(とりわけ台詞の精彩が素晴らしい)も大きいが、ぼくの側の事情もある。《デューン》シリーズ全体の展開やフランク・ハーバートのほかの作品を知ったうえで、作品の細部に目を凝らすことができたからだ。はっきり言ってしまうと、ストーリーだけを追って読んだり、設定を大づかみしただけでは、さほど面白い小説ではない。登場人物にも華がなく、中心にいるのは考えすぎでメンドクサイやつばかりだし、脇役はステレオタイプだ。しかし、それらはいわば果皮みたいなもので、この作品の滋味はその下に隠された漿果にある。

 人類が宇宙へ広がった遙かな未来、皇帝を頂点とし、大領家が各惑星を治める階級社会が構成されていた。この物語は、レト・アトレイデス公爵がもともとの領土である惑星カラダンから砂漠の惑星アラキスへ移封されるところからはじまる。アラキスは抗老化作用のある希少な香料メランジを算出する宇宙で唯一の場所だ。その惑星を治める役を与えられたのは名誉だが、それは表向きで、じつはレト公爵の人望をうとんだ皇帝と、アトレイデス家に遺恨を抱くウラディーミル・ハルコンネン男爵の陰謀だった。ハルコンネン家は以前のアラキスの統治者であり、その立場がレト公爵に移ったことでメランジの産出が減少すれば当然誹りを受ける。それにかこつけて、レト公爵を追い落とそうという算段だ。もちろん、ハルコンネン男爵はアラキス統治時代にその布石をあらかじめ打っていた。

 レト公爵は政治的配慮によって未婚だが、愛妾レディ・ジェシカとのあいだに一人息子ポールがおり、彼が公爵家の次代当主であり、この物語の主人公である。ジェシカは宗教的学院ベネ・ゲセリットの卒業生で、特殊な精神=肉体的な秘術を身につけていた。それをポールにも伝授している。アラキスへの出発に先立ちジェシカはベネ・ゲセリットの教母を呼び、教母はポールに「ゴム・ジャッバールの試練」を与える。ポールは通常の人間では耐えられぬ激しい苦痛を乗りこえ、教母を瞠目させる。この若者は、あるいはベネ・ゲセリットの伝承にある〈クウィサッツ・ハデラック〉たる人物かもしれない。しかし、まだこの時点では〈クウィサッツ・ハデラック〉がいかなる存在なのか、読者に明かされない。謎めいた響きの言葉がほとんど説明もなしに投入することで、作品の雰囲気が醸成される。

 アラキスへ移ったレト公爵はハルコンネンの陰謀に対してできるだけの備えをするが、意外な人物の裏切りによって非業の死を遂げる。ハルコンネンは皇帝から借り受けた霧笛の武装集団サーダカーを投入し、アトレイデ家の勢力を根こそぎにする。ジェシカとポールは砂漠へ逃れ、過酷な環境のなかで独自な文化を築いた自由民フレメンに保護を求める。

 ぼくは中学一〜二年生のとき、矢野徹訳の『デューン 砂の惑星』に接した。石森章太郎(当時の名義)が表紙・挿絵を描いた四分冊で「アメリカ二大SF賞受賞!/SF史上十指に入る大傑作巨篇! ここに本邦初訳なる!」のコシマキが施されていた。その当時の自分と年齢が近い主人公ポールをすべての中心とみなし、ハルコンネンの奸計によって無念の最期を迎えた父レト公爵の仇を討つべく、自由民フレメンの主導者となって反乱を起こす「復讐」と「正義」の物語として読んだ記憶がある。正直に言えば、エキゾチックな装飾は施されているけど、なんだか古くさい感じを受けた。「公爵家の世継ぎに剣術の稽古をつける教育係」とか「大領家間の婚姻を通じた同盟」とか「三代に仕えた忠勤の家臣」とか「秘書としても有能な寵妾」とか、いったいいつの時代だよ。

 もちろん、かつてアメリカSFで主流だった進歩主義やテクノクラシーへの異議申し立てとして、1960年代以降のSFではオルタナティヴな文明観に基づく設定がしばしば用いられているのはわかっていた。アーシュラ・K・ル・グィン『闇の左手』が恒例だ。とはいえ、『デューン 砂の惑星』の大領家どうしの確執とか父の仇討ちとかは、オルタナティブというよりも大時代(ロマンチック)に映る。

 しかし、この新訳版で読み返し、正統にせよオルタナティブにせよ一意的な価値観でくくれない小説だと考えを改めた。復讐劇は作品の太い背骨ではあるけれど、それに絡みつくようにしてさまざまなサブストーリーが縦横に走っている。

 物語の前半でひときわ目を引くのは、惑星学者カインズ博士の存在だ。彼自身の来歴は本篇中ではほのめかされる程度だが、附録として併載された(下巻に収録)「デューンの生態学」を読めばより詳しいことがわかる。

 カインズ博士の父バードット・カインズも惑星学者だった。外世界から水が希少な惑星アラキスにきた人間で、この惑星を「太陽によって駆動される一機械」とみなし、人類の要求に適合したかたちで環境改造を構想した。その際に注目したのが、砂漠に住む自由民フレメンの存在である。フレメンは生態学的にも地質学的にも強力な道具になりうる。その当時アラキスを支配していたハルコンネン家はフレメンを平気で殺すが、バードットにとってそれはとんでもない愚行だ。彼はフレメンのなかに入りこみ、この惑星を水の困らない世界につくりかえる夢を説いた。予言者に準ずる人物として認められ、フレメンの女と結婚し、子をなす。その子がカインズ博士だ。

 彼は父を後継し、公的な身分は帝国直属の惑星学者でありながら、帝国にもハルコンネン家にも与しないフレメンの顔役でもある。物語のなかでは、まず皇帝の命を受けた移封監視官として登場する。アラキスの支配権がハルコンネン家からアトレイデス家へと引き継がれるにあたって、形式にのっとった委譲がおこなわれているかを見届け、揉めごとがおこれば調停する役割だ。表向きは中立的な立場だが、アトレイデス家の移封は皇帝も承知の政治的な罠であり、その含みは移封監視官も理解しておかなければならない。その一方で、個人としてのカインズ博士は権力抗争を皮肉な目で眺めている。彼にとって重要なのは、あくまで父が目ざした惑星改造だ。

 カインズ博士はアトレイデス家の晩餐会で、レディ・ジェシカが生態学的な知識を披露したことに強い関心を示す。かたや、レディ・ジェシカはカインズ博士が何かを隠していることに気づく。彼女はベネ・ゲセリットの訓練によって言葉や表情の裏を読むことができるのだ。こうした探りあい—-ときに相手を出しぬいたり操ったりしようという策略さえ—-が、物語の随所でおこなわれる。

 カインズ博士が「科学的・実証的な理想」の立脚しているのに対し、ベネ・ゲセリットは「神秘主義的な叡智」の極にある。先にふれた「ゴム・ジャッバールの試練」もそうだが、この学院はかなり危険—-現代の感覚で言えば異端—-な思想に沿っており、何世紀にも及ぶ選択的な人類血統改良計画すら企てている。レディ・ジェシカもその信仰を共有しているが、アトレイデス公爵のもとに来てから自分の意志で男児(ポール)を産むなど、学院上層部の意向にかならずしも沿わない行動をとっていた。ポールから見れば、ベネ・ゲセリットは両義的だ。自分の家系を遺伝的にコントロールしている血も涙もない集団だが、一方で、彼と母ジェシカがハルコンネン家の陰謀にかかって砂漠に追われたとき、ベネ・ゲセリットが古くからアラキスに伝えていた予言者伝説のおかげでフレメンに受け入れてもらえた、つまり恩恵に浴してもいるのだ。

 カインズ博士、ベネ・ゲセリットだけではなく、この作品にはいくつもの文化・価値観が交錯している。ベネ・ゲセリットと並ぶ精神=肉体の教育機関がギルドで、彼らは宇宙の交通・物流・バンキングを独占している。ギルドの航宙士は宇宙で遭遇する危険を回避するためにメランジを摂取している。ある資質を持った人間はメランジによって限定的な未来予測能力が惹起されるのだ。メランジの唯一の産地アラキスの政治は、ギルドにとっても重要な関心事である。アラキスの南部が衛星軌道上からの観測を免れているのは、ひそかにメランジがギルドに賄賂として流されているからだという。

 そして、この作品でもっとも大きなウェイトを占めるのが、砂漠の民フレメンの文化だ。宇宙帝国を特徴づける大領家階級の統治とはまた別な意味でフレメンの価値観は中世的であり、ベネ・ゲセリットと通じる秘教的な部分もあるが土着性が強く、アラキスの環境と調和する生活の知恵を湛えている。砂漠の主とも言える巨大生物、砂蟲は震動を感知すると爆走してきて蹴散らす剣呑な存在だが、フレメンは砂蟲の習性を熟知しており過度に恐れることはない。砂蟲はメランジの生成とも関わっているらしい。フレメンは身近に存在するメランジを日常的に摂取している。彼らに受け入れられたポールは、もともとの精神鍛錬にメランジの作用が加わって、ギルドの航宙士のそれを超えた予知能力を発現させる。そこで知った最悪の未来を避けるべく、彼はひとびとを導こうとする。おそらくポールにとってハルコンネン家を打倒することは究極の目的ではなく、歴史を動かすための因子なのだろう。

 アトレイデ家とハルコンネン家との因縁、皇帝を含めた帝国内の政治的抗争、カインズ博士が理想とした惑星改造の理想、フレメンとの苛烈な文化・習俗、ベネ・ゲセリットがめざす血統改良、交通・物流の要を握るギルドの暗躍、さらには狂信的武装集団サーダカーの無慈悲とプライド、星間総合商社CHOAMの打算、メランジ密売人たちの思惑……それらがアラキスを焦点として拮抗する。

(牧眞司)

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