「社畜たちへ」――丸山健二の「怒れ、ニッポン!」第4回

丸山健二氏のご自宅の庭にて撮影

※小説家丸山健二氏よりご寄稿いただきました。トップ写真は丸山氏のご自宅の庭にて撮影させていただいたもの。

怒れ、ニッポン!

 一度動物園で飼育された動物を自然に返すことは、殺処分も同様の仕打ちであることは自明の理であり、だから、そんな非道な真似をする関係者はほとんどいない。しかし、勤め人の場合は違う。長い余生を送るにはあまりにも僅かな餌を持たされ、あとは自力でどうにかしろということで野に放たれる。

 属している国家や雇ってくれた企業にそれほどまでに恩義を感じなくてはならない根拠など、ひとつもありはしないのだ。国は税金を搾り取り、企業は搾取しただけのことであって、恩を感じてもらわなければならないのは、むしろあなたの側である。それにもかかわらず、何故にそこまで卑屈になるのか。


 あなたという存在をどこまでも蔑ろにし、とことんこけにしているのは、ひょっとするとあなた自身なのかもしれない。あなたの自由を封じてしまっているのは、いかなる場合においても追従の生き方を優先させ、ともあれ周囲と調子を合わせたがるあなたであって、ほかの誰かではないのかもしれない。

 耳に響きのいい言葉のみを捜し回り、その場凌ぎの癒しの言葉のみに期待し、慰め合いに救いを求めるだけでは、同じ悲劇と挫折に幾度も襲われることになる。それ以外の現実にそくした厳しい言葉を余計なお節介としてのお説教と受け止めているあいだは、あまりにも不甲斐ない、イメージ人間のままだ。

 あなたは自分の首輪の立派さを本気で誇るつもりなのか。よしんば宝石や金銀で飾りたてられていても、所詮は枷や軛のたぐいであることに気づかずじまいで定年を迎えるつもりなのか。もともと自由な存在であるべきあなたを不自由にさせているのがその首輪であるという事実に目をつぶるつもりなのか。

 もしもあなたに人間としての尊厳を大切にしたいという気持ちが多少なりともあるのなら、あなたを締めつけ、あなたの自由の大半を奪っている首輪を、その時が訪れたあかつきには自らの手で外さなければならない。人として生きたかどうかは、ひとえにその成否いかんに掛かっている。今がその時かも。

 首輪を外すことを野良犬の立場に身をやつすという意味に解釈してはならない。日々の糧を確保するために、拾い食いしたり、もらい食いしたり、盗み食いしたりするというような憐れな生き方を想像して怯えてはならない。生き物として自力で餌を確保するのは真っ当であり、ために、生きる喜びがある。

 人間的尊厳を重視して生きたい、本来自由であるべき人間に復帰したいという、そんな自然な願望を絶望に終わるだけの夢にしていいのか。それで本当にいいのか。あなたの周りには歯が立たない人間ばかりがいて、かれらに従うしかないのか。徒手空拳を恐れてはならない。孤立無援を嘆いてはならない。

 もう一度言う。いや、何回でも言う。これは不特定多数の民衆のための国家などではないのだ、と。特定少数の連中がいい思いを独占したいがための国家なのだ、と。そいつらの傲慢で豪勢な暮らしを支える、それだけのために我々は存在し、かれらの奴隷として一生を終えるのだ、と。国家なんて幻だ。

 東電と原子力保安委員会の広報係の開き直りの態度がすっかり板についてしまった。いかに危険で、いかにずっこけた内容であっても、ともかく淡々とした口調でもって発表しておけばそれでいいのだという居直りが固定化され、この国の未来を覆い隠した恐怖が一段と凄みを増してきている。ぞっとする。

 安全を殊更強調するのは、それがいかに危険であるかという何よりの証にほかならない。そして、この世に安全なものなどないのだからとする言い訳は、所詮、詭弁のたぐいでしかない。原発に対するただ一辺倒の反対は単純に過ぎ、この問題はもっと複雑なのだとする反論もまた、裏切り者の論理なのだ。

 原発を推進させていい思いをするのは国民ではない。こんなことになってしまって悲惨な目にあわされるのは我々だけなのだ。必要以上どころか、べらぼうに高い電気料金でぼろ儲けしてきた輩は、築き上げた莫大な財力でもって、放射能の届かぬ安全な土地へいつでも好きなときに移り住むことができる。

 牛や豚や鶏のように、肉にされる運命をおとなしく受け容れる手はない。我々は人間であって、家畜ではない。やられっぱなしで死んでゆくことはない。徒死を迎える前に、せめて自分が人間であったことを知らしめようではないか。神妙な顔の裏であざ笑っている輩に一矢を報いてやろうではないか。

 もう一度政治家どもや役人どもや経営者どもの顔をとっくりと見よ。果たしてこれが要職にふさわしい人相かどうかをじっくり確かめるがいい。無能なくせに私欲だけは人一倍長けており、保身のみしか念頭にない、姑息な人間とはこういう顔を持つ連中をさして言うのだ。あなたの目はまだ節穴なのか。

 資本家とその手先である為政者たちは、国民を欺き、利用し、蔑ろにしているばかりか、この程度の知恵しか回らない、この程度の怒りしか覚えない、この程度の根性しかない連中など御しやすいものだと、そう高をくくっている。さもなければ、この期に及んであれほど厚かましく振る舞えるはずがない。

 要職に就いている無能な政治家は、依然として有能なふりをつづけている。人前ではいかにも賢そうな表情や態度を演技し、もともと有りもしない正義への情熱をさかんにアピールしながら、甚だしく似合わない地位に尚もしがみついているその姿は、哀れにして滑稽だが、実はこれ以上の危険はないのだ。

 それにしてもどうしてこうまでそろいもそろってこんなアンポンタンやオタンコナスやロクデナシばかりが政治家や役人や知事や経営者なのだろうか。そのくせ連中は人一倍愛国者を気取り、日本の将来について誰よりも強い思いを抱いているといったアピールに精を出す。反社会的な国賊とはこいつらだ。

 大臣というポストを与えられたとたんに威張り散らしたがるのは、そいつらを前にするや一や二もなくへりくだってしまう者が多いからだ。どんなに理不尽な真似をしても、いかに横柄な態度を取っても、へいこらするとわかっているから、あの連中のあまりに封建的な接し方が依然として改まらないのだ。

 こうしたどこまでも浅はかで無責任極まりない国家を構築し、それを支えることで、身の丈を越えたいい思いを堪能してきた連中は、未だにその思いが忘れられず、あるいは、惨めな転落に怯え、ために、原発を維持する悪しき方向へと着実に動きだしている。一時のしおらしい態度はもはや見る影もない。

 理念が理念と呼ばれるゆえんは、ひとえに欲望に蹂躙される運命にあるからだ。欲望は知性も理性も軽く一蹴し、あざ笑い、明日ではなく、この今を生きるだけの刹那的なエネルギーを授けてくれる。要するに麻薬と同じということだ。欲望に添い過ぎた国家に輝ける未来はない。待っているのは破滅のみ。

 この国を真の意味における国民のものにできる時代は訪れるのか。それはひとえにあなたの認識いかんにかかっている。見た目や、雰囲気といった判断材料に頼っている限りにおいては、とんでもない悪党に全権を委ねてしまうことになる。それらしく見える奴ほど危ないのだ。しっかり覚えておくがいい。

 この国に最も欠落しているのは、反省の力だ。そもそも反省という言葉さえ知らないのではないか。反省がないから同じ失敗を幾度でも繰り返すのだ。動物たちでさえも反省から学習へと直結する能力をしっかり具えており、同じ轍を踏まぬように気を配って生きている。日本人は動物以下ということか。

 金さえ入ってくれば、原発であろうが軍事基地であろうが受け容れてしまうという生き方から派生する悲劇の数々。企業にたかり、国家にたかって生きることを自立した人生よりも優先させてしまうという堕落した精神。そして最も恐ろしいのは、かれらにそれ以外の選択肢がないと思い込ませる洗脳の力。

 敬うに値する、素晴らしい人間が登場することを期待する前に、自分という人間と、その周辺にいる人間を再点検するがいい。そうすることによって、どうしてあんなクズどもを自分たちの代表として檜舞台に立たせてしまったかがわかり、大いに悔やまれるはずだ。まずは疑いの眼で他者を見ることだ。

 搾取されるばかりの一般人のあいだであれほどまでに広がっていた不安や恐怖心だが、しかし、ひとたびそれに慣れてしまうとみるみる影をひそめ、さほどの悲劇ではなかったのではないのかという強気な重いがつのり、もしくはその重圧に耐えきれなくなって、人生の喜びを享受する方向へと傾いてゆく。

 夢のようにころがりこんでくる金が目当てで原発を認めてしまうであろうと思われる、潜在的な市町村は数知れないだろう。公害の歴史はそうやって築かれてきたのだ。目の前に飴をちらつかせられたなら、あとはもう安全であるという真っ赤な嘘をずらりと並べてもらうだけで、美味い話だと信じ込む。

 恐怖に立ちすくみ、鬱に胸ふさがれ、悲劇の海で全身濡れ鼠になってしまった人々は、暗澹たる未来を前にしてなす術もない日々を送っているうちに、結局は自分しか当てにできないことに気がつき、これまで眠っていた底力が突如として芽生え、支え合って生きることとは他者を頼ることではないと悟る。

 本当に頑張らなければならないのは、安全な境遇に身を置いているためにむしろ溺れかけている、あなた自身ではないのか。被災者たちは、いちいち頑張れと言われなくても頑張らざるを得ない状況に陥ってしまっているので、その点においてはあなたよりもはるかに逞しい精神状態にあると言えるのだ。

 ひっきりなしにテレビに登場するコメンテーターは、結局、国民を騙す側に身を置く、大悪党の手先の小悪党にすぎない。そもそもスポンサーや国家の影響を避けては通れないかれらに本音など言えるわけがなく、ましてや正真正銘の正義を唱える資格などあるはずもないのだ。卑しさが表情に出ている。

 権力や金力に色目をつかい、すり寄り、その片棒を担ぐために真実や真理を平気でねじ曲げるような、とことん性根の腐った輩が文化人であるはずがなく、また、教養人や学者であるわけもないのに、かれらにはその自覚がすっぽりと欠如している。ために、厚顔無恥を臆面もなくさらすことができるのだ。

 日本人はどうしてここまでお上に弱いのか。何故に対等の関係で正々堂々と物を言うことができないのか。上下関係以外の関係を知らないのか。それは、一個の独立した人間としての誇りを棄てているからだ。損得のみの尺度しか持ち合わせていないせいだ。要するに、性根が腐っているということになる。

 疑心が暗鬼を生み、不信が自暴自棄を差し招き、そして生きる目的さえも失いかけたとき、なでしこジャパンの奇跡的大勝利がもたらされ、人々は息を吹き返したかのようにいっせいに瞳を輝かせる。よく頑張った選手たちから強力なパワーをもらったと言って大喜びする。本当に彼女たちを見倣えるのか。

 どんなに純粋な頑張りも、結局は国威発揚に利用されてしまうスポーツの前途はどうなる。あくまでも凄まじい努力を重ねて結果を出した当人たちが大したものなのであって、間違ってもニッポンが大したものであるということではないのだ。そのあたりの認識をはき違えると、民族主義に付け込まれる。

 言語不在の陰鬱な沈黙のそこに座り込んではいないか。世離れした暮らしに憧れながらも、苦難ばかりの日常をだらだらと送ってはいないか。空を切って飛ぶ鳥を見かけるたびに、無に惹かれている自分にはたと気がつきはしないか。もしかすると生きることに失敗したのではないかと呟いたりしないか。

 偽善者の政商が危機を最大限に利用して世論を煽り、政治家を意のままに動かして企む、ぼろ儲け。原子力エネルギーに取って代わるものとしての風力発電や太陽光発電にまつわる黒い噂の数々。どんな時にも、どんな所にもころがっている利権。それに群がり集まる小悪党から大悪党まで。正義はどこに。

 怒りも悲しみもそう長くはつづかない。ましてやそれが深い反省に結びつくことなどほとんどあり得ない。だから、人はいかに劣悪な環境のもとであっても平然と生きてゆけるのだ。ほんのちょっとした楽しみを見いだしながら、何事もなかったかのように、実際にはとてつもなく悲惨な暮らしを笑顔で送る。

 本来自由であるべきはずの人間が、いつしか国家の支配層にその魂をまる呑みにされ、思考と行為を理不尽なまでに制限され、偽の道徳によって欺かれ、尊厳を無化され、無条件的な立場へと追いやられてしまうといった時代は、じわじわと迫ってくるのではなく、ある日を境に、突如として訪れるのだ。

 歯が立たないものとしての放射能が投げかける影は、日を追うにつれて濃くなるばかりだ。もはや言い繕えないほど深刻な段階へと差しかかり、徒手空拳の人々の頭上と足元を暗くさせ、未来への夢や希望を無残に打ち砕き、真なるものへと向かって開かれているはずの精神の扉を閉ざさせようとしている。

 臆面もなく、しゃあしゃあと嘘をつく政治家のひとりが、自分が先頭に立って誘致した原発であるにもかかわらず、それがひとたび重大な事故を引き起こすと態度を一変させ、いつの間にか原発反対を訴えている。東電の広告塔を務めて稼いでいた女流作家が、原発に向かって非難めいた言葉を発している。

 国民の為政者に対する不審の念はますますつのるばかり。しかし、せいぜい愚痴止まり。こいつらを何とかしてその地位から引きずり下ろしてやろうというけなげな決意を固めるまでには至らない。あとはもう、諦めの深いため息を漏らすか、かれらの間抜けぶりと欲の深さを愚弄して喜ぶかするしかない。

 この国が自分たちのものでないとしたら、我々はいったい何だというのだ。おのれの行動の手綱をあっさりと国家に渡してしまったお人好しの愚者か。それとも、真の国民としての威信を獲得する気持ちなどもとよりない、思い込みと自堕落な生き方が得意の〈奴隷もどき〉か。自ら滅びる道を選ぶなんて。

 中国の列車事故についてあげつらう資格など日本にありはしない。他国の欠点を利用して自国の欠点を帳消しにするような見え透いた真似はするな。まだ獄門が閉じられたわけではないのだから。依然としてそれはぽっかりと大口を開け、無言のまま毒をまき散らしながら犠牲者の数を増やしつづけている。

 他人の行為から受けた感動を感動のままで終わらせることなく、自分のなかにしっかりと取り込んでおのれの人生を力強いものに変えてゆく者は、稀だ。そのほとんどが一過性の興奮と感涙のなかへと埋没してしまい、一ヵ月後にはもういつもの自分に、自分の頑張りで得る感動とは無縁な者に戻っている。

 やっぱり国家は資本家たちの私物でしかない。癒着の構図がますます鮮明になってきている。あいつらはやりたい放題のことをやっている。これまでもそうだったし、これからもそうだろうという思いが強くても、しかし、諦めるわけにはゆかない。言える立場に在る者はけっして口を閉ざしてはならない。

 さまざまな形で抑圧している飼い主の実態に気づいたとき、さて、どう出る。首輪を外してから痛憤を込めてそいつに飛び掛かることができるか。その心構えが本当にできているのか。ためらってもいい。怯んでもかまわない。利害に執心することなく、最終的に牙を剥くことができれば、その者は人間だ。

 世界平和を口にするとき、絶対に目をそらしてはならないこと。それはどうしてこうもたやすく国家に従ってしまうのかという、ただこの一点にある。そこに言及しない平和会議や平和集会は、単なる戯れ言の交換の場にすぎない。それどころか、もしかすると戦争を暗に容認する行為になるかもしれない。

 戦争は国家が起こす行為であり、国民は国家の決断に引きずり込まれるだけである。参戦に賛成し、それを支持する国民であっても、いざ自分が兵士として戦場に赴かなければならない立場に立たされたときにはたちまち及び腰になってしまう。血の気の多い若者を煽って犠牲にするのは国家の常套手段だ。

 戦争を推し進めたがる連中は、兵士としてはほとんど役に立たない、老いぼれたちであって、かれらはいつも安全なところに身を置き、冷血な命令を平気で下し、何十万、何百万という犠牲者を軽々と乗り越えて、勲章を押しいただき、名誉を独り占めにし、後世に名を残し、記念碑やら銅像やらを建てる。

 いい若い者が「国益」などという言葉を得意気に使っている場面に出くわすたびに反吐が出そうになる。そうやってどんなに国家にゴマをすったところで、国家はおまえのことなど屁とも思っていないのだぞ。頭のひとつも撫でてやって、「愛い奴じゃ」と言い、けちな飴玉でもしゃぶらせるだけだぞ。

 国家を私物化している連中は、いかに有能な働きをし、いかに忠実な僕の役を見事に演じたところで、最終的に自分たちの仲間には加えない。飴玉以上の褒美はけっして与えない。奴隷頭にはしても、奴隷をこき使う側にまでは出世させない。奴隷頭は、最終的に奴隷と主人によって軽蔑の板挟みにされる。

 ネットの時代は世界主義の拡大に焦点を定めるべきだ。そしていかなる国家の憲法や法律にも優先し、支配階級を厳しく排除した、地球上の仲間としてのそれを創るべきだ。結束を固め、互いに情報を交換し、支援し合うだけで、流血を最小限に抑えた革命を、比較的短期間でなし遂げられるかもしれない。

 不安の世でなかった時代は皆無だ。それというのも、こうして儚い命を抱えて生きる存在自体が非常に危ういものであるからだ。つまり、この世の摂理は命あるものに対して闘えと言っている。人生は最初から最後まで闘いの連続だと言っている。だからといって、闘いの対象を戦争に置くのは愚の骨頂だ。

 自分たちは地球を何百回となく破壊できるほどの核兵器を保有し、未だに実戦配備をしながら、ほかの国がそれを持とうとすると途端に目くじらを立てるのは、あまりに理不尽で、あまりに不条理ではないのか。自分たちは理性と常識を具えているから、危険極まりない代物を持つ資格があると言うのか。

 戦争を絶やさないようにするという異様なやり方で経済をどうにか支え、辛うじて大国の地位を保ってきたアメリカも、さすがにここへきてどうやっても帳尻が合わなくなり、肝心の軍事費さえも削減しなければならなくなって、いよいよ本格的な衰退を迎えつつある。同盟国日本など容赦なく切り捨てる。

 核兵器を非人道的なものとして決めつけるならば、その他の通常兵器は人道的なのか。核戦争は反対で、普通の戦争は賛成ということなのか。廃絶すべきはすべての兵器とすべての戦争とすべての軍隊ではないのか。そのことを非現実的として笑い飛ばすのならば、最初から平和を口にしなければいいのだ。

 自主避難という無責任極まりない言い方を平気でする政府。それは政府が自ら政府であることを放棄したことを意味し、もはや国家の体を成していないことを認めたことにほかならない。ならば、国民は国民でありつづける必要がないということになり、国を無法地帯と位置づけてもかまわないことになる。

 政治家どもはああでもないこうでもないという屁理屈を付けて東京電力の命を救おうとしている。つまり、連中にはそれほどの恩義があり、復活したあかつきにはかれら個人個人に多大なメリットがあるというわけだ。政治の良心の有無は、ひとえにこの怪物企業を死刑にできるかどうかにかかっている。

 政治家はどうして自分の手に余る仕事に就いてしまったのかということに気がつかないのか。そんな重い使命を果たすだけの能力など本当はどこにもありはしないのだということがなぜわからないのか。それほど愚かということなのか。その地位を確保すればあとは役人や秘書たちがどうにかしてくれるのか。

 東京電力がこれまでさまざまな名目のもとにばら蒔いてきた金は、社会の隅々まで浸透し、充分過ぎるほどの効果をあげてきた。金の効果は絶大で、それになびかなかった者は皆無と言ってもいい。そうやって民主主義国家のなかで絶大なる王国を築き上げ、誰にも文句を言わせぬ雰囲気を生み出してきた。

(つづく)

丸山健二氏プロフィール
1943 年 12 月 23 日生まれ。小説家。長野県飯山市出身。1966 年「夏の流れ」で第 56 回芥川賞受賞。このときの芥川賞受賞の最年少記録は2004年の綿矢りさ氏受賞まで破られなかった。受賞後長野県へ移住。以降数々の作品が賞の候補作となるが辞退。「孤高の作家」とも呼ばれる。作品執筆の傍ら、350坪の庭の作庭に一人で励む。
Twitter:@maruyamakenji

※原稿は丸山健二氏によるツイートより

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