ネット上の発言の劣化について

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内田樹の研究室

今回は内田樹さんのブログ『内田樹の研究室』からご寄稿いただきました。

ネット上の発言の劣化について

個人的印象だが、インターネット上での匿名発言の劣化がさらに進んでいるように見える。
攻撃的なコメントが一層断定的になり、かつ非論理的になり、口調が暴力的になってきている。
これについては、前に“情報の階層化”という論点を提示したことがある。
ちょっと長い話になる。
かつてマスメディアが言論の場を実効支配していた時代があった。
讀賣新聞1400万部、朝日新聞800万部、『紅白歌合戦』の視聴率が80%だった時代の話である。
その頃の日本人は子どもも大人も、男も女も、知識人も労働者も、“だいたい同じような情報”を共有することができた。
政治的意見にしても、全国紙の社説のどれかに“自分といちばん近いもの”を探し出して、とりあえずそれに同調することができた。
“国論を二分する”というような劇的な国民的亀裂は60年安保から後は見ることができない。
国民のほとんどはは、朝日から産経まで、どれかの新聞の社説を“口真似する”というかたちで自分の意見を表明することができたのである。
それらのセンテンスはほぼ同じ構文で書かれ、ほぼ同じ語彙(ごい)を共有しており、ほぼ同じ論理に従い、未来予測や事実評価にずれはあっても、事実関係そのものを争うことはまずなかった。
それだけ言説統制が強かったというふうにも言えるし、それだけ対話的環境が整っていたとも言える。
ものごとには良い面と悪い面がある。
ともかく、そのようにして、マスメディアが一元的に情報を独占する代償として、情報へのアクセスの平準化が担保されていた。
誰でも同じような手間暇をかければ、同じようなクオリティの情報にアクセスできた。
“情報のデモクラシー”の時代だった。
これはリアルタイムでその場に身を置いたものとしては、“たいへん楽しいもの”として回想される。
内田百閒と伊丹十三が同じ雑誌に寄稿し、広沢虎造とプレスリーが同じラジオ局から流れ、『荒野の七人』と『勝手にしやがれ』が同じ映画館で二本立てで見られた。
小学校高学年の頃、私は父が買ってくる『文藝春秋』と『週刊朝日』を隅から隅まで読んだ。
それだけ読んでいると、テレビのクイズ番組のすべての問題に正解できた。
そういう時代だった。
だが、70年代から情報の“層化”が始まる。
最初に“サブカルチャー系情報”がマスメディアから解離した。
全国紙にはまず掲載されることがない種類のトリヴィアルな情報が、そういうものを選択的に求める若者“層”に向けて発信され、それがやがてビッグビジネスになった。
“異物が混在する”時代が終わり、“異物が分離する”時代になったのである。
たしかに、筒井康隆の新作を読むつもりで買った月刊誌に谷崎潤一郎の身辺雑記が掲載されていたら、「ここ読まないのに、その分金出すのもったいないよ」と思う読者が出てきても仕方がない。
メディアの百家争鳴百花繚乱(ひゃっかりょうらん)状態が始まった。
そのときも「別に、これでいいじゃん」と思っていた。みんなも「これでいいのだ」と言っていた。
それによって、社会集団ごとにアクセスする情報の“ソース”が分離するようになってきた。
国民全員が共有できる“マス言論”という場がなくなった。
若い人はもう新聞を読まない。テレビも見ない。
必要があれば、ニュース記事はネットで拾い読みし、動画は『YouTube』で見る。
“必要があれば”というのは、当人のまわりで“それ”が話題になっているときに、キャッチアップする“必要があれば”ということである。
まわりで話題にならなければ、戦争があっても、テロがあっても、政権が瓦解して通貨が紙くずになっても、どこかの国が水没しても、どこかの国の原発が爆発しても、そんなことは“知らない”。
マス言論というのは、いわば“自分が知っている情報をマップするための、メタ情報”である。
もし、マス言論の場に登録されていない情報を自分が知っている場合、それは“国民レベルで周知される必要のない情報”だという予備的なスクリーニングがかけられたと判断してよい。
“国民レベルで周知される必要のない情報”には二種類ある。
“重要性が低いので(例えば、“今のオレの気分”)、周知される必要がない情報”か“あまりに重大なので(例えば、尾山台上空にUFOが飛来した)、それが周知されると社会秩序に壊乱的影響を及ぼす情報”の二つである。
そして、私たちは長い間のマスメディア経験を通じて、“自分は現認したが、マスメディアに報じられない情報”はとりあえず第一のカテゴリーのものとみなすという訓練を受けていた(ぶつぶつ文句を言いながら、ではあるが)。

それが揺らいできた。
マスメディアの“マップ機能”が著しく減退したからである。
マスメディアのマップ機能が低下すると、私たちは自分の知っている情報の価値を過大評価するようになる。
私が知っていて、メディアが報道しない情報は、“それを知られると、社会秩序が壊乱するような情報”であるという情報評価態度が一般的になる。
やっと話が最初に戻ってきた。
私が今のネット上の発言に見る一般的傾向はこれである。
自分自身が送受信している情報の価値についての過大評価。
自分が発信する情報の価値について、“信頼性の高い第三者”を呼び出して、それに吟味と保証を依頼するという基本的なマナーが欠落しているのである。
ここでいう“信頼性の高い第三者”というのは実在する人間や機関のことではない。
そうではなくて、“言論の自由”という原理のことである。
言論が自由に行き交う場では、そこに行き交う言論の正否や価値について適正な審判が下され、価値のある情報や知見だけが生き残り、そうでないものは消え去るという“場の審判力に対する信認”のことである。
情報を受信する人々の判断力は(個別的にはでこぼこがあるけれど)集合的には叡智(えいち)的に機能するはずだという期待のことである。
それは自分が言葉を差し出す“場”に対する敬意として示される。
根拠を示さない断定や、非論理的な推論や、内輪の隠語の濫用や、呪詛(じゅそ)や罵倒は、それ自体に問題があるというより(問題はあるが)、それを差し出す“場”に対する敬意の欠如ゆえに“言論の自由”に対する侵害として退けられなければならないのである。
繰り返し書いている通り、挙証の手間暇や、情理を尽くした説得を怠るものは、言論の場の審判力を信じていない。
真理についての検証に先だって、自分はすでに真理性を確保していると主張する人間は、聴き手に向かって「お前がオレの言うことに同意しようとしまいと、オレが正しいことに変わりはない」と言い募っているのである。
それは言い換えると「お前なんか、いてもいなくてもおんなじなんだよ」ということである。
私たちはそういう言葉を聴かされているうちに、しだいしだいに生命力が萎えてくる。
それはある種の“呪い”である。
言論の自由には“言論の自由の場の尊厳を踏みにじる自由”“呪詛(じゅそ)する自由”は含まれないと私は思う。

情報の“層”化が進行し、私たちはいま“情報の階層化”のフェーズに入っている。
それは端的に言えば“質の良い情報にアクセスできる階層”と“質の悪い情報にしかアクセスできない階層”の分極化である。
だが、問題はそれが“状態”ではなく、“プロセス”だということである。
“質の良い情報”というのは物性のことではない。
そうではなくて、自分の発信する情報が“情報環境全域”の中でどこに位置づけられ、どう機能しているかを“マッピング”できるということである。
「私はこのことを言うことによって“何を言いたいのか”」を言える情報は良質な情報である。
“質の悪い情報”はその逆のもののことである。
それが送受信される文脈、その歴史的機能などについて自省する機制を含まない情報は“質の悪い情報”である。
「オレはこう思う」とか「オレはこれを知っている」といったタイプの情報は、そのコンテンツの正否にかかわらず“質の悪い情報”である。
自分の主張に含まれている“思い込み”“事実誤認”“推論の間違い”などについて、価値中立的な視点から精査する自己点検システムを含まないステートメントは、そのコンテンツの正否にかかわらず“質の悪い情報”に分類される。

現在進行している情報の階層化は、端的に言えば、“情報には質の差がある”ということを知っている人たちと、それを知らない人たちの間に広がっている。
情報の階層化は不可逆的に進行する。
“質のよい情報”を取り込む装置を持っている人のところには“質の良い情報”が累積し、“質の悪い情報”をスクリーニングできない人のところには“質の悪い情報”だけしか集まらない。
“情報”はその自体的な正否によってではなく、“それが誤っている蓋然性”についての適正な評価を伴う場合だけに意味がある。
そのことを“知っている人間”と“知らない人間”の間に、急速に、不可逆的なしかたで、情報の階層差がいま進行している。
情報化社会においては、その差は権力・財貨・文化資本のすべての配分に直接反映することになる。

誤解して欲しくないが、私は情報の階層化には反対である。
ネット上に“呪詛(じゅそ)”を書き込んでいる諸君は、それによって他ならぬ自分自身を情報化社会の最下層にくぎ付けにしていることに気づいて欲しいと思って、この文章を私は書いている。
たぶん、ご理解いただけないであろうが(あ、いけない呪いを書いちゃった。今のなしね)。

執筆: この記事は内田樹さんのブログ『内田樹の研究室』からご寄稿いただきました。

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