「なんでもない」に滲む不吉、不穏、不条理、不思議
シャーリイ・ジャクスンの代表作と言えば何をおいても「くじ」で、アンブローズ・ビアス「アウルクリーク橋の出来事」やサキ「開いた窓」などと並び、”奇妙な味”の愛好家なら知らぬ者はいない超有名作だ。あまりにショッキングな内容に、雑誌初出時には読者からの苦情や問い合わせが殺到したといういわくつき。当時(1948年)の読者がナイーヴだったとも言えるが、そこまで騒動になったのは、不吉な行為を平静に描いた筆致ゆえだろう。(「くじ」はこれを表題作とする短篇集に収録されている)
「くじ」に比べると知名度はだいぶ低いが、ぼくが「これぞジャクスン!」と思い定めている傑作が「なんでもない日にピーナツを持って」だ。一般に謎物語(リドルストーリー)と言えば、予想されるふたつの結末のうちどちらになるかわからないまま幕が閉じるオープンエンドのことだが、この作品はそもそも結末らしい結末がなく、登場人物がおこなうわけのわからない行為の理由がついに解かれない。いや、それ以前に謎が謎として描かれない。日常的といえば日常的だし、常軌を逸しているといえば常軌を逸している。それがかえって不思議だ。
ちなみに「なんでもない日にピーナツを持って」は新しい邦題。原題”One Ordinary Day, with Peanuts”の意味に正しく沿っているのだけど、個人的には旧邦題の「ある晴れた日、ピーナッツを持って」に愛着がある。余談ついでに言うと、この作品の初出は当時(1950年代半ば)のアメリカ三大SF雑誌のひとつ〈F&SF〉。外形的にはSFでもファンタジイでもない作品だが、こうした微妙に奇妙な話までSFに含める受けとめかたがあって、その感覚をこの書評欄『今週はこれを読め! SF編』も踏襲している。
さて、本書はジャクスンの歿後に編まれた短篇集。タイトルの『なんでもない一日』(原題 Just an Ordinary Day)は、ほかならぬ「なんでもない日にピーナツを持って」に由来しているのだろう。もちろん、この短篇も収録されている。原書は五十三篇収録だが、邦訳版はそこから選りすぐっての三十篇だ(小説が二十三篇、エッセイが序文とエピローグを含めて七篇)。
やはり「なんでもない日にピーナツを持って」が傑出しているが、謎めいた作品系列では「行方不明の少女」も面白い。キャンプスクールから失踪した少女をめぐって淡々と物語が進み、日常なのか奇異なのか、平穏なのか不吉なのか、宙ぶらりんのまま収まるところがない。作者が小さな声で「これが私たちの生きている世界なんですよ」と言っているようだ。これも〈F&SF〉掲載作。
本書には、超自然的な要素がはっきりとある怪奇小説も収録されている。そのうちの一篇、「城の主(あるじ)」は城主が魔術に手を染めた咎で縊刑になり、その嫡子(主人公)が復讐心を募らせる。「父上は優しい人間だったが、この土地に迷信をはびこらせている悪霊を打ち負かそうとし、逆に打ち負かされてしまったのだ」。彼の前に城主の落とし胤(つまり主人公の異母兄弟にあたる)ニコラスがあらわれ、協力を申しでる。ニコラスは有能でどんな荒事もあっさりこなす。父の意志を継いで悪霊を探しだし滅ぼそうとする主人公の意志の固さに対し、ニコラスはシニカルに「まったく、あんたは目的を果たすためなら、どんなことでもするのだな」と笑う。作中にいくつもの小さな伏線を仕掛けるジャクスンの手つきは、一服のお茶に微毒を溶かしこむようだ。それらが終盤で一気に結びつき、残酷な結末へなだれこむ。
「喫煙室」は怪奇小説の一ジャンルとなっている「悪魔との契約」を、逆転の発想と諧謔でまとめた軽快ユーモア。そのタイトルどおり、悪魔を煙に巻く話だ。
広い屋敷の壁に掛かった一枚の絵をめぐる「お決まりの話題」は、ゴシックのムードがあるけれど、物語構造がシャープなホラー。絵に描かれているのは屋敷そのもので、合わせ鏡の像のなかへ落ちこんでいくような不安感が印象的。
「家」は、見知らぬひとをクルマに乗せたらそれが幽霊で—-という実話怪談によくある展開だが、作者が狙っているのは戦慄の演出や幽霊にまつわる因果ではなく、まったく別種の不気味さだ。都会から田舎へ来た女性が話者で、その土地特有の淀んだ空気、じっとりとした日常の澱にふれていく。ちょっと「くじ」に似たところがある。
「夏の日の午後」はゴーストストーリーの匂いがするが、物語はあくまで日常の範疇だけで進行する。ふたりの少女キャリーとジーニーが、久しぶりにティッピーに会いに行く。ティッピーはふたりがつけたあだ名で、角の家の窓越しにその姿がのぞくのだが絶対に外へは出てこない。キャリーのママはその家には子どもはいないと言うのだが……。キャリーとジーニーのキャッチボールのように単調な会話が、物語に不思議なリズムを与えている。
意地悪なミステリもジャクスンはうまい。ミステリと言っても広義のそれで、犯罪や策謀はあっても謎解きはない。内容的には凄く後味が悪いのだけど筆致があっさりしていて、身中に乾いた寒気が走る。「よき妻」「悪の可能性」「おつらいときには」は、いずれも手紙が重要な役割を担っている。手紙はひとからひとへと言葉を伝える古典的なツールだが、ジャクスンの登場人物はひとを試す、ひとを惑わす、ひとを操る手だてとして巧妙に用いる。他人へ与える効果ばかりではない。ときとしてそれが手紙を書く自分自身へ跳ね返ってくる。
「インディアンはテントで暮らす」は手紙を並べて構成されている。こちらは意地悪ではなく、部屋の又貸しをしている複数人のあいだでの依頼や交渉がドミノ倒し式に進んでは、また後戻りしたりする、目まぐるしく愉快な作品。
ジャクスン自身は手紙を書くのは得意だったのだろうか? そんな気もする。エッセイの「S・B・フェアチャイルドの思い出」では、ニューヨークの大型店から購入したテープレコーダーが不良品でそれを返品しようとするのだが、いっこうに埒が明かず、延々と手紙を書きつづけるはめになる。小説と同様、エッセイでも強い感情表現がない。あからさまに読者を笑わせようとしないユーモア、あえてトゲトゲせず平然としているからこそ滲む皮肉、ジャクスン一流の味わいだ。
エッセイのうち、「男の子たちのパーティ」「不良少年」「カブスカウトのデンで一人きり」は、小生意気で手のつけられない実子(とその友人たち)を扱っている。自分の子どもを扱ったエッセイなんて親馬鹿みたいだし、実際に母親としての愛情はじゅうぶんに伝わってくるのだけど、ドライな突き放した視線もあってその間合いが独特だ。子育ての経験者は「あー、そうそう!」と膝を叩くかもしれない。子どもがいないひとでも、突拍子もないことをぬけぬけとやってのける悪戯っ子の無体さが楽しめる。この系列では、ジャクスンは一冊まるまるの子育てエッセイ『野蛮人との生活』があるのだけど、邦訳版はいまは手に入れにくい。本書の「訳者あとがき」で市田泉さんも訴えているように、続篇の『悪魔は育ち盛り』(こちらは部分訳が雑誌掲載されたきり)と併せて、復刊熱望。
(牧眞司)
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