脱原発の理路
今回は内田樹さんのブログ『内田樹の研究室』から転載させていただきました。
脱原発の理路
平田オリザ内閣官房参与は17日、ソウル市での講演で、福島第一原発で汚染水を海洋に放出したことについて、「米国からの強い要請があった」と発言したのち、翌日になって「不用意な発言で、たいへん申し訳なく思っている」と発言を撤回して、陳謝した。
発言について平田参与は「この問題には全くかかわっておらず、事実関係を確認できる立場でもない」として、事実誤認であることを強調した。
内閣官房参与、特別顧問の“失言”が続いている。
平田参与の前に、3月16日には笹森清内閣特別顧問が、菅首相との会談後に「最悪の事態になった時には東日本がつぶれることも想定しなければならない」という首相の発言を記者団に紹介した。
4月13日には松本健一内閣官房参与が「原発周辺には10~20年住めない」という首相発言を紹介したのち、撤回した。
震災直後に内閣官房参与に任命された小佐古敏荘東大大学院教授は、政府の原発事故対応を「場当たり的」と批判して、4月29日に参与を辞任した。
私はこれらの官邸に近いが、政治家でも官僚でもジャーナリストでもない方々の“ぽろり”発言はおおむね真実であろうと解している。
彼らはある意味“素人”であるので、官邸に実際に見聞きしたことのうち、“オフレコ扱い”にしなければならないことと“公開してもいいこと”の区別がうまくつかなかったのだろう。
私だって、彼らの立場になったら、“ぽろり”と漏らす可能性がたいへんに高い人間なので、とりわけご本人の篤実(とくじつ)なお人柄を存じ上げている平田さんには同情を禁じ得ないのである。
顔見知り相手に内輪で「いや、驚いた。ここだけの話だけどさ、実はね……」というふうに言うのまではOKだが、マスメディアやネット上で公開してはならないコンフィデンシャルな情報というものは、官邸まわりに出入りしていれば、ごろごろ転がっているであろう。
「それは言わない約束でしょ」という、“あれ”である。
「あるけど、ない」とか「ないはずだけど、ある」というときの“あれ”である。
“そういうもの”がなければ、政治過程だって意思疎通はできない。それは政治家の方たちと多少お話をする機会があるとわかる。
彼らだって、一皮むけば“ふつうの人”である。喜怒哀楽があり、パーソナルな偏見を抱えており、あまり政治的に正しくないアイディアだって抱懐している。
それをある程度開示しなければ、自分が政治家として“ほんとうは何がしたいのか、何を言いたいのか”をまわりの人たちに理解させることはできない。
それは“自分のメッセージの解読のしかたを指示するメッセージ”、すなわちコミュニケーション理論でいうところの“メタ・メッセージ”として、通常は非言語的なしかたで(表情や、みぶりや、声のピッチや、あるいは文脈によって)指示される。
顧問や参与のみなさんの“失言”は、発言者が“どういう文脈でそれを言ったか”というメタ・メッセージの聞き違えによって発生したものと思われる。
その“文脈のとり違え”は「私のような“ふつうの人間”に“そういうこと”を平気で言うというのは、“そういうこと”はいずれ天下に周知されることなのだ」という解釈態度によってもたらされたのだと私は思う。
つまり、参与や顧問の方々はご自身を“政治家たちの中に立ち交じっている非政治家”だとは自覚しているのだが、それをつい“ふつうの人間”のことと勘違いしたのではないかと、私は思うのである。
“私のようなふつうの人間”にむかって、“こんなこと”がぺらぺら話されるというのは、“こんなこと”は別にクラシファイドではないのだ、という情報の機密度評価を彼らはなしたのではないか。
ところが、彼らは“クラシファイド情報を開示してもいいクラブ”のメンバーに実はリストされていたのである。ただそのことがご本人には、はっきりとは伝えられていなかったのである。「そういうことは、先に言ってくれよ」と平田さんも、松本さんも思ったのではないであろうか。
以上、すべて想像ですので、「ちげーよ」と言われたら、それっきりですけど。
ともかく、私は上に名を挙げた方々はすべて“官邸内で実際に聴いたこと”をそのまましゃべったものと理解している。おおかたの日本人もそう理解しているはずである。
興味深いのは、マスメディアがこれらの発言が“撤回”や“修正”されたあとに、あたかも“そんなこと”そのものを“なかったこと”として処理しようとしていることである。
“たぶん『ほんとうのこと』なんだろう”という前提から、“『失言』の裏を取る”という作業をしているメディアは私の知る限りひとつもない。
私はこの抑圧の強さに、むしろ驚くのである。
それはつまり、政治部の記者たちは自分たちを“インサイダー”だと思っている、ということである。
政治家たちがリークする“クラシファイド”にアクセスできるのだが、それは公開しないという“紳士協定”の内側で彼らは仕事をしているのである(そうじゃないと“政府筋”の情報は取れない)。
だから、今回のような“クラブのメンバーのはずの人間の協定違反”に対してはたいへん非寛容なのである。
たぶんそうだと思う。
おおかたの読者も私にご同意いただけるだろう。
以上、マクラでした。
さて、その上で、平田発言を吟味したい。
これは私が『週刊AERA』の今週号に書いたことにだいたい符合している。
私はこう書いた。そのまま採録する。
* * * * *
菅首相が浜岡原発の停止を要請し、中部電力がこれを了承した。政治的には英断と言ってよい。メディアも総じて好意的だった。でも、なぜ急にこんなことを菅首相が言い出し、中部電力もそれをすんなりのんだのか、その理由が私にはよくわからない。経産省も電力会社も、「浜岡は安全です」って言い続けてきたのだから、こんな“思いつき的”提案は一蹴しなければことの筋目が通るまい。でも、誰もそうしなかった。なぜか。
政府と霞ヶ関と財界が根回し抜きで合意することがあるとしたら、その条件は一つしかない。アメリカ政府からの要請があったからである。
もともとアメリカが日本列島での原発設置を推進したのは、原発を売り込むためだった。ところがスリーマイル島事故以来、アメリカは新しい原発を作っていない。気がつくと“原発後進国”になってしまった。でも、事故処理と廃炉技術では国際競争力がある。
福島原発の事故処理ではフランスのアレバにいいところをさらわれてしまい、アメリカは地団駄踏んだ。そして、「ではこれから廃炉ビジネスでもうけさせてもらおう」ということに衆議一決したのである(見たわけではないので、想像ですけど)。
だから、アメリカはこの後日本に向かってこう通告してくるはずである。「あなたがたは原発を適切にコントロールできないという組織的無能を全世界に露呈した。周辺国に多大の迷惑をかけた以上、日本が原子力発電を続けることは国際世論が許さぬであろう」と。
その通りなので、日本政府は反論できない。それに浜岡で事故が起きると、アメリカの西太平洋戦略の要衝である横須賀の第七艦隊司令部の機能に障害が出る。それは絶対に許されないことである。
だから、アメリカの通告はこう続く。「今ある54基の原発は順次廃炉しなさい。ついては、この廃炉のお仕事はアメリカの廃炉業者がまるごとお引き受けしようではないか(料金はだいぶお高いですが)」。
むろん「ああ、それから代替エネルギーお探しなら、いいプラントありますよ(こちらもお高いですけど)」という売り込みも忘れないはずである。
ホワイトハウスにも知恵者はいるものである。(引用ここまで)
* * * * *
内田樹の大市民講座 / 「浜岡」停止は米国の策謀『週刊AERA』 5月23日号 より引用
驚いたことに、菅首相の浜岡原発操業中止要請を中部電力が承諾した時点から、ほとんどすべての新聞の社説は(週刊誌を含めて)、ほぼ一斉に“脱原発”論調に統一された。
福島原発において日本の原子力行政の不備と、危機管理の瑕疵(かし)が露呈してからあとも、政府も霞ヶ関も財界も、「福島は例外的事例であり、福島以外の原発は十分に安全基準を満たしており、これからも原発は堅持する」という立場を貫いており、メディアの多くもそれに追随していた。
それが“ほとんど一夜にして”逆転したのである。
私はこれを説明できる政治的ファクターとして、平田オリザさんが漏らしたように「アメリカ政府の強い要請」以外のものを思いつかない。
MBSの子守さんの番組でも申し上げたように、日本が脱原発に舵(かじ)を切り替えることで、アメリカはきわめて大きな利益を得る見通しがある。
(1) 第七艦隊の司令部である、横須賀基地の軍事的安定性が保証される。
(2) 原発から暫定的に火力に戻す過程で、日本列島に巨大な“石油・天然ガス”需要が発生する。石油需要の減少に悩んでいるアメリカの石油資本にとってはビッグなビジネスチャンスである。
(3) 日本が原発から代替エネルギーに切り替える過程で、日本列島に巨大な“代替エネルギー技術”需要が発生する。代替エネルギー開発に巨額を投じたが、まだ経済的リターンが発生していないアメリカの“代替エネルギー産業”にとってはビッグなビジネスチャンスである。
(4) スリーマイル島事件以来30年間原発の新規開設をしていないせいで、原発技術において日本とフランスに大きなビハインドを負ったアメリカの“原発企業”は最大の競争相手をひとりアリーナから退場させることができる。
(5) 54基の原発を順次廃炉にしてゆく過程で、日本列島に巨大な“廃炉ビジネス”需要が発生する。廃炉技術において国際競争力をもつアメリカの“原発企業”にとってビッグなビジネスチャンスである。
とりあえず思いついたことを並べてみたが、日本列島の“脱原発”化は、軍事的にOKで、石油資本的にOKで、原発企業的にOKで、クリーンエネルギー開発企業的にOKなのである。「日本はもう原発やめろ」とアメリカがきびしく要請してくるのは、誰が考えても“アメリカの国益を最大化する”すてきなソリューションなのである。
私がいまアメリカ国務省の小役人であれば、かちゃかちゃとキーボードをたたいて“日本を脱原発政策に導くことによってもたらされるわが国の国益増大の見通し”についてのバラ色のレポートを書いて上司の勤務考課を上げようとするであろう(絶対やるね、私なら)。
勘違いして欲しくないのだが、私は「それがいけない」と申し上げているのではないのである。
私は主観的には脱原発に賛成である。
そして、たぶん日本はこれから脱原発以外に選択肢がないだろうという客観的な見通しを持っている。
けれども、その“適切な政治的選択”を私たち日本国民は主体的に決定したわけではない。
このような決定的な国策の転換でさえも、アメリカの指示がなければ実行できない、私たちはそういう国の国民なのではないかという“疑い”を持ち続けることが重要ではないかと申し上げているのである。
不思議なのは、私がここに書いているようなことは“誰でも思いつくはずのこと”であるにもかかわらず、日本のメディアでは、私のような意見を開陳する人が、管見の及ぶ限り、まだ一人もいないということである。
原発のような重要なイシューについては、できるだけ多様な立場から、多様な意見が述べられることが望ましいと私は思うのだが、こんな“誰でも思いつきそうな”アイディアだけを誰も口にしない。
執筆: この記事は内田樹さんのブログ『内田樹の研究室』から転載させていただきました。
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