「躾」と「ルール」は別物?親と学校それぞれが担う子どもへの責任
「躾」と「ルール」を一括りに考えてはいけない
公共の場での振る舞い、モンスターペアレンツやクレーマーの増加など。最近、日本人の美徳とされる礼儀や他者を尊重する精神が疑われるような人が増え、日本人の躾(しつけ)に対する懐疑論が聞こえるようになりました。結果、躾がままならない親が増えたことが要因とされることで、世の中のルールは学校で教えるしかないという意見もあります。
しかし、個人的には「躾」と「ルールを教える」ことを一括りに考えるのは、大雑把なように思います。「躾」とは「美しい身体」と書くように、自分自身に直接影響を与えるものです。「躾」はある目標を達成するための普遍的な行動規範であり、「ルール」は一定の限られた範囲でのみ有効な行動規範に過ぎません。このあたりのところをきちっと整理した上で議論を重ねなければ、「公共の場でのルールを学校で教える」ことは感情的な水掛け論に陥ることになるでしょう。
日本人の長年にわたる歴史が道徳観を育んできた
日本人は元来、農耕民族で、全員が協調し、協力し合い、生活を営んできました。それゆえ、他者と極端に異なる行動、他者に迷惑を掛けるような行動は自分や家族、ひいては村全体をも危機に陥れる原因になります。良し悪しは別にして、こうした日本人の長年にわたる歴史が「お天道様が見ている」「人様に迷惑を掛けてはいけない」「我慢しなさい」などの道徳観を育んできたことに間違いありません。
「日本人の躾」も、そのような道徳観に基づいて行われてきました。その結果、日本人特有の「おもてなし」の精神を育み、非常時には被災者同士が助け合うといった、世界から注目を浴びるような行動の基礎を生みました。このように、躾が自分自身の内面形成と他者への外面的な行動形成の元になっていると見る限り、日本人のDNAに刻み込まれた「躾」は衰退しているとは思いません。時代時代における価値観の変化が「躾」の外見上の相違を生み、それが「日本人の躾」の衰退と捉えられているのかもしれません。
学校ではあくまでも「ルール」を教える
話を本題に戻して、「公共の場でのルールを学校で教える」ことについても考えてみましょう。私見を述べさせてもらえば、私は賛成の立場を取ります。しかし、それはあくまで「ルールを教える」ことについてです。集団生活の行動規範を教えるのは、家庭よりも学校などの方が適しています。一人ひとりの価値観に基づき、自発的な行動を促すのではなく、ある一定の状態、環境、限定的範囲内での行動規範を教えるのです。
一方、個人の自立活動を伴う「躾」は家庭や社会に任せるべきで、学校がしゃしゃり出る幕ではありません。また、「公共の場でのルール」は学校だけで教えるのではなく、家庭における積極的な協力も不可欠でしょう。
(栢原 義則/進学塾塾長)
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