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恵方巻の起源は悲運の皇族・長屋王? 謎の松江藩主・堀尾吉晴とは

恵方巻の元祖と伝えられる堀尾吉晴が築城した松江城天守

2月3日は節分である。節分といえば恵方巻だ。
さて、恵方巻を初めて食べたのは戦国武将で、松江藩(現在の島根県松江市)・初代藩主の堀尾吉晴(ほりお・よしはる)だという話をご存知だろうか? 恵方巻はよく知られているように大阪の海苔問屋が広めた風習である。海苔問屋では、堀尾吉晴が恵方巻の元祖だといっているのだ。

(恵方巻は、)戦国時代の武将(堀尾吉晴といわれる)が、節分の日に丸かぶりをして出陣したら戦に勝ったので、以後瑞祥としたことに端を発する。

※沓沢博行氏が紹介する、大阪海苔問屋協同組合の事務局長の職に就いていた藤森秀夫氏からの聞き取り

陰陽道で安倍晴明が定めた“恵方”を向いて食べていることからみても、なにかこの堀尾吉晴という人物は呪術に関係がありそうではないか。堀尾吉晴と恵方巻のことをもっと調べようと、松江市教育委員会に早速電話してみた。

堀尾吉晴は今でも松江では神として祀られている

「堀尾吉晴さんと恵方巻についてお話を聞きたいのですが」と筆者が言うと、「吉晴公ですね」と、職員の皆さんは堀尾吉晴に敬称をつけて呼んでいるのが印象的だった。松江では、やはり堀尾吉晴は神さまであった。市内の松江神社の祭神は堀尾吉晴公なのだという。

地元の古い歴史に詳しい、史料編纂室の稲田氏にお話を聞いたところ、驚くべき回答があった。

「堀尾氏については活躍の時期が畿内で、豊臣秀次の宿老をやっているなど相当活躍していたので、知名度が高かったことは考えられる。出雲に来たのはだいぶ後なので、むしろ、松江では資料が少なく分かっていないことが多い。

堀尾吉晴公が恵方巻きを食べたという話は初耳です。ただ、当時は風水や方角を相当気にしていたことは事実なので、関連性もあるかもしれない。今の松江では恵方巻の風習はありません。最近になって関西から入ってきました。大阪では堀尾吉晴公は太閤記の講談にも出てくるので人気がありました。(稲田氏)」

――大阪の講釈師が堀尾吉晴公と恵方巻を広めたのかもしれませんね。

「ええ、吉晴公は秀吉の合戦にもほとんど出ていましたし、大阪では知名度はあったと思いますよ」

この話を手がかりに、“風水や方角”を気にしていたということで、堀尾吉晴と呪術の関わりについて、さらに調査したところ、意外なことがわかった。堀尾吉晴はなんと、偉大な魔術師の子孫であったのだ。吉晴は奈良時代の左大臣、陰陽道の呪術に長けたことで有名な長屋王(ながやのおう)の子孫なのだ!

堀尾吉晴は陰陽道の大家・長屋王の子孫。呪術に長けていた?

野史に詳しい東京大学名誉教授の竹内理三さんが編纂した『角川日本史辞典』には、長屋王についてこうある。

ながやのおう 長屋王 684ー729(天武13-天平1)
天武天皇の孫。高市皇子の第1皇子。(中略)724年(神亀1)聖武天皇即位とともに左大臣となり、藤原氏に対抗するする勢力をなした。729(天平1)密告により邸宅を囲まれ、天皇の命により妻子とともに自殺。これを長屋王の変という。藤原氏陰謀の犠牲となったと考えられている。

その罪状は「習得した陰陽道(左道)を駆使して時の天皇とその近臣を呪った」という、ライバルの藤原氏の陰謀であったことがほぼ定説となっている。なお、竹内さんのいう“密告者”は後に不審死を遂げている。堀尾吉晴は、長屋王の唯一許された孫、磯部王の子孫・高階一族の末裔である。

「陰陽師でもないのに陰陽道に通じた」高階一族は密教・修験道・神道の行者を輩出。一族には“後宮の女帝”・高階栄子も!

高階一族は「子孫には諸省の卿・国守などを歴任、院政期には院の近臣として権勢をふるうもの多く、後白河法皇の寵妃・高階栄子も同族の出である(竹内さん)」というから、藤原氏の襲撃により潰された後も、隠然たる勢力を持っていたようだ。高階栄子は、昔の大河ドラマ『義経』で、夏木マリ演じる美貌の妖妃として登場している。市川ジュンの名作マンガ『よう輝妃』の主人公としても有名である。

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