給与や報酬は「辛い思いをした対価」ではない
今回は下川 北斗さんのブログ『頭の中に思い浮かべた時には』からご寄稿いただきました。
給与や報酬は「辛い思いをした対価」ではない
勘違いしている人をたまに見るが、給与や報酬は「辛い思いをした対価」ではない。
誤解を生む遠因として、労働力の需要と供給の関係があると思う。
「五体満足なら誰でもできるが、誰もやりたがらない仕事」というものがある。
学生時代に“危ないバイト”の噂で盛り上がった経験のある人も多いはずだ。
果敢にもそれらを実践したことのある人もいるだろう。
そういった仕事には労働者が集まらないので、雇用者は報酬をできる限り高く設定するしかない。
つまり、労働力の供給が需要に対して少ないために価格が上がるというものである。
労働力の供給が少ないパターンとしては、「誰もやりたがらない」のほかに「そもそもできる人が少ない」というものがある。
つまり特殊技能や経験がないとできない類いの仕事で、これは習得のために一定の努力が必要である。
「誰もやりたがらない仕事」、「できるようになるのに努力が必要な仕事」、どちらも辛いからこそ報酬が高いのだという考えが染みつくのは、不自然なことではない。
別の要因もある。
彼は上司が嫌いだ。朝起きるのが嫌いだ。仕事が嫌いだ。
しかし生活のためには働かざるを得ない。
毎日毎日蓄積されるストレスを何とかやり過ごすために、彼は自らに言い聞かせる。
「これを我慢するから給料がもらえるのだ」
* * *
ここで結論を述べる。
報酬とは、創り出した価値への対価だ。
我々は個々の技能に従って、あるいは建築し、あるいは教育し、PCのキーボードを叩き、包装し、整理し、デザインし、災害を防ぎ、料理し、演奏し、報道し、啓蒙する。
対価を受け取れるのは、その一つ一つが他者にとって価値のあるものだからに他ならない。
そのプロセスが苦しいものであろうとも、また喜びに満ちたものであろうとも、ほとんどの場合、最終的に価値を享受する者には全く関係がない。
だから楽しんだ方がいい。
細かい個々のタスクが体力的・精神的に苦しくとも、その向こうにある、創り出されようとしている価値を見つめて働けば、それらは喜びに転じうる。(長時間労働や精神的圧迫を肯定するものではない。当然、苦しまずに同じ価値を提供する方法を模索すべきだし、労働環境が個人の生活や健康を害するものならば、そうでない別の場で価値提供する道を考えるのがよい。)
そして「仕事が辛い」というのは一大事である。多くの人にとって、仕事とは活動時間の大半を占めているものだからだ。
「給料は我慢料だ」という言葉があるらしい。ある種の皮肉だと思うが、これも誤解を招く。
“我慢”が直接報酬を発生させるのではない。
我慢した結果、何らかの課題が解決された場合に限り、それは価値となり、報酬を生む。
大切なのは価値だ。
例えばハイヒールで足を踏まれる痛みに耐えたからといってお金はもらえない。(ここで「そのケースはご褒美を頂いているのだからむしろ対価を支払って然るべきである」とする向きは話がややこしくなるので黙っていて頂きたい。)
もちろん、報酬を支払う者が「辛い思いをさせてしまったから、金額を上乗せしてやりたい」と考えたり、受け取る者が「辛かったので上乗せしてほしい」と主張したりする気持ちは理解できる。
しかし、論理の裏を採って「楽しんでやっているのなら報酬は要らないだろう」とか「楽しいならそれは仕事ではない」などとするのは明らかな誤謬だ。
楽しく遊んでいるように見えても、それが価値を生み出すための過程の一段階であれば、それを仕事と呼ぶことはできる。
労働は楽しくていい。
遊びが価値を生み、そこから対価が発生する。そういう仕事もたくさんあるのだ。
* * *
妻「貴様、昨夜は、否、今朝は何時まで飲み歩いていたのか」
僕(沈黙、乃至は土下座)
妻「その頻度を大幅に減らし、且つ門限を午前三時と定めるべきである」
僕「待って欲しい。あれは仕事の一環である」
妻「楽しんでおきながら仕事とは笑止千万。貴様はただ遊んでいたに過ぎぬ」
というとき、僕は妻にそんな話をする。
執筆: この記事は下川 北斗さんのブログ『頭の中に思い浮かべた時には』からご寄稿いただきました。
寄稿いただいた記事は2013年09月06日時点のものです。
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