0から1を作った経験
今回はmedtoolzさんのブログ『レジデント初期研修用資料』からご寄稿いただきました。
0から1を作った経験
たとえば爆弾テロの事例がニュースで報じられれば、たいていの人はたぶん、それを「ひどい事件だな」と思う。テロリストの側に与する人が同じニュースを聞けば、もしかしたら「よくやった」と思うかもしれない。ニュースに対してどんな態度をとるにせよ、ニュースというものはほとんどの人にとっては消費の対象であって、それを経験として蓄積できる人は少ない。
同じニュースを聞いても、見聞した事例を通じて自分の経験値を高める人もいる。爆弾テロの事例ならば、爆弾を自分で作り、爆薬の威力というものを知っている人がそれであって、こういう人がニュースを見ると、「なるほどそういう仕掛けかたもできるのか」と、爆弾の仕掛け方がより凶悪になってみたりする。
どんな分野であれ、ゼロから何かを生み出す経験をした人は、あとは事例を見るほどに、自身の経験が増していく。
経験には2種類ある
100年続くチームを引き継ぎ、体育会のキャプテンとして1年間チームを率いた人はすごいけれど、その人が相手チームを眺めた時に得られるものは、もしかしたらそれほど多くないかもしれない。
同じようなチームのリーダーであっても、人を集め、サークルをゼロから立ち上げ、予算を申請し、手探りの活動を通じてどうにか大会に参加することができたキャプテンは、チームの実力こそ100年の伝統に及ぶことはないだろうけれど、対戦したあらゆるチームから運営に関する気付きを得て、それを自分の経験として役立てることができる。
「有名なイベントとか、大きな組織にメンバーとして参加したことがある」という経験と、「何かをゼロから立ち上げたことがある」という経験は、分けて考えないといけない。どちらの経験も大切だけれど、それを持っていることの意味合いや、そうした経験の活かしかたは全く異なってくる。
たとえば100を101にした経験は、一種の身分証明書として役に立つ。0を1にした経験はずっと個人的なものだけれど、それを持っていると、様々な事例を見聞するだけで、経験値が勝手に増えていく。
大学にいた大昔、部長からは「心カテ室を一人で設計、立ち上げられるようになりなさい」と教わった。それをやるにはカテ室に置かれた物品の配置や人の動き、手技に必要な人数とその根拠を全部把握する必要があって、それをすべて知っている人が、結局専門家になれるのだと。そうした知識を持っている人は、他の病院を見学しても、得られるものがまるで異なってくるからと。
自分がたとえばどこかの開業クリニックにお邪魔したとして、待合室が混んでいたら、「混んでいるな」という感想しか出てこない。自分で開業した経験のある人ならば、患者さんの動かしかたや待たせかた、椅子のつくりや配列みたいな待合室の風景から、自分よりもはるかに多くのことを学べるのかもしれない。
車輪は再発明したほうがいい
参考書を読めば答えが書いてあるような事例であっても、それをあえて再発明する試みが大事なのだと思う。
車輪の再発明は無意味のたとえによく引かれるけれど、お手本からあえて目をそらして車輪を再発明してみせることで、その人は今度は、街を歩いて誰かの車輪を眺めるだけで、そこに込められた工夫や改良を学ぶことができるようになる。
参考書から何かを学んだら、今度は参考書を自分で作ってみると理解が深まる。どうしてこのたとえ話は分かりやすいのか。どうしてこの章にはこれだけの分量が必要なのか。自分で誰かを教えたり、参考書やマニュアル本を作ってみることで、次から誰かの参考書を読むときに、異なった視点で教科書を読むことができるようになる。
「よく勉強した人」と「専門家」とは異なるのだと思う。よく勉強した人は、新しい教科書が出版されないと新しく学べない。専門家はたぶん、道を歩いていても、事例に当たれば事例から経験を学べる。そうなるためにはたぶん、自分でゼロから何かを作る経験が必要になる。
畑村洋太郎の本に、学生にスターリングエンジンを作らせる実習が取り上げられていた。エンジンとしては古典的なもので、キットだって普通に市販されているけれど、エンジンの原理を教え、キットではなく、ホームセンターで材料を選び、自分で加工するところから学生にやってもらうと、ほとんどの学生はエンジンを動かすことができないのだという。それは実習として失敗なのだけれど、そうした経験が大事なのだと。
今ならたぶん、発注する図面に精密度を指定しておけば、お金さえ積めば、工場ではいくらでも精密な部品を作ってくれる。ところがどうしてそこがその精密度でないといけないのか、そこが精密でなかった時に何が起きるのか、そういうことは案外、自分でやって失敗してみないと体感できない。
就職活動ではときどき、「経験者募集」の看板が出るけれど、経験というのはたぶん、「0から1」を当て込んでいるのではないかと思う。
無難の意味を知る
世の中ではもう大抵のものが発明されていて、0からの試行錯誤を繰り返しても、お手本を忠実になぞっても、最終的にはほとんどの人が、完成形としての「無難」に到達する。等しく獲得された無難であるけれど、両者は区別すべきなのだと思う。
たぶんどんな分野でも、お手本をどこかで否定しながら、自分でゼロから全部作ると、個性を全面に押し出した「改良品」を作ろうとした結果、実用に遠いどうしようもない何かが生み出されることになる。こうした失敗を通じることで、その人は無難の意味とか凡庸のありがたみに気がつくことができる。
お手本として無難を選び、それを忠実になぞってしまえば、失敗を経過することなく目当ての無難に到達できる。ところがこれをやってしまうと、完成した無難を、今度は改良する必要に迫られた時に手が止まってしまう。
自分でゼロから何かを作った経験があれば、力の使い所や配分すべきリソース、到達できた目標と、あきらめざるを得なかった目標とが理解できる。改良の機会があればどこをどう直すべきなのか、最初に無難に到達できたその時点で、頭の中には次のプランができていたりもする。
お手本をなぞった人たちにとっては、改良とは「より厳密」を追求することになる。目的を定めず全方向的にベストを尽くした結果として、役に立たない「より厳密な車輪」の再発明になってしまったプロダクトは、世の中にはけっこう多い。
ゼロから何かを作った、ゼロから何かを再発明した経験を基礎に持つことで、はじめてたぶん、その人は経験から学ぶための入り口に立てるのだと思う。
執筆: この記事はmedtoolzさんのブログ『レジデント初期研修用資料』からご寄稿いただきました。
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