「日本人はもう少し喧嘩をすべき」 在住26年ドイツ人禅僧が見た日本

「日本人はもう少し喧嘩をすべき」 在住26年ドイツ人禅僧が見た日本

外国人にスポットを当てながら日本の文化を紹介するテレビ番組が目立ったり、おもてなし」の心がクローズアップされたりするなど、メディアを見ていると「日本の良さ」がひと際目に映る。

しかし、当たり前のことだが、どんな外国人も日本の素晴らしい一面だけを見ているわけではない。

兵庫県新温泉町にある安泰寺の住職・ネルケ無方氏は、旧西ドイツ・ベルリン出身のドイツ人の禅僧。16歳で坐禅と出会い、1987年に初めて来日。1990年に留学生として再来日し、以来26年間、日本に住み続けている。

そんなネルケ氏は、初めて日本にやってきた当初、自身がイメージしていた日本の姿とまったく違う光景にカルチャーショックを覚えたそうだ。

ネルケ:私が日本に興味を抱いたきっかけは、坐禅や仏教、鈴木大拙さんが執筆した本でした。日本に来日したのも「禅の修行をしたいから」「ゼンを肌で感じたいから」という動機です。

 

でも、成田に降り立った瞬間、愕然としました。東京に行ってもそれは同じ。当時はバブル真っただ中でゼンの「ゼ」の字もなく、昼は疲れた顔をしたサラリーマンたち、夜はボディコンを着て扇子を仰ぐ女性たちに目を奪われました。一日中キラキラしていました。

 

ホームステイをしていたのですが、同年齢の子たちはゼンやお茶、生け花といって文化に興味を示していませんでしたし、逆に「なんでそんなのに興味を持ったの?」と言われたりもしました。

当時をこのように振り返り、初めての日本に「ガッカリした部分もあった」と正直に語るネルケ氏。

ネルケ:今の日本は、当時とはだいぶ変わりましたね。当時は外国人が珍しかったから、ただで英会話の練習ができると思っていたためか、英語で話しかけてくる人は多くいました。知らないおじさんに「どこに行くの?」と話しかけられたり、指をさされたりすることもありました。若い女子に「一緒に写真を撮って!」とも言われるのは、嫌いではありませんでしたが・・・(笑)。

 

また、地方の都市では、歩いているだけで子どもたちから「アメリカ人だ!」と声をかけられたりしました。ドイツ人なんですけどね。でも、悪い気はあまりしなくて、母国ではパッとしない暗い青年だったので注目されるのは嬉しかったところもあります。

 

今の日本人は外国人に慣れたと思いますし、指をさすどころか、日本語で話しかけてくれる人も増えました。私はそのほうが好きですね。

■遅刻した時の反応、日本は「すみません」。ドイツは…?

ネルケ氏は日本とその文化を愛してやまない。だからこそ、インタビューでも誠実に日本に対して指摘を行う。良い部分だけでなく、「ちょっとヘンな」部分も見据えながら、話をしてくれるのだ。

『曲げないドイツ人 決めない日本人』(サンガ刊)は、そんなネルケ氏が母国であるドイツと日本の国民や文化を比較しながら、その違いや共通点をつづったエッセイである。

例えば、日本では遅刻した際にまず「すみません」と謝るが、ドイツではまず理由を話すところから始まるという。その裏には「電車が遅れたのだから自分は悪くない」という考えがあり、謝ると逆に「なんでお前は謝っているんだ」と言われてしまうのだとか。

もちろん、こうした国民性の違いに「善し悪し」はない。あるのは「合うか合わないか」である。

ネルケ氏自身、書籍の中で日本的な義理人情で気をつかい合う人間関係が好きだと述べている。逆にドイツに帰ると、そういったウェットなコミュニケーションが恋しくなり、何かが足りないと思ってしまうのだとか。

ネルケ:ドイツ人も日本人も生真面目で勤勉と言われていますが、ドイツ人は生真面目というよりくそ真面目です。いつも眉間に皺が寄っていて、難しそうな顔をしている。そして勤務時間内ではよく働くが、残業はしたがらない。比べて、日本人はそのあたり融通が利きます。残業はしますが、勤務時間内でさぼることも珍しくありません。よく言えば和やかでおおらかという印象ですね。私が関西にずっといるからかもしれませんが、そういう傾向はあると思います。

 

ただ、全員日本人がそうかというと、もちろんそうではありませんよ。それは、ドイツも同じ。ドイツ人の中にはむしろ、自分がまったくドイツ人らしく思っていない人が多いのです。「私は、普通のドイツ人ではない」というのは、それこそ普通のドイツ人のセリフです。

■日本において「多文化共生」の社会は可能なのか?

ヨーロッパにはさまざまな人種が集まっている。ネルケ氏が、「10代の前半に自転車で国境を越えてデンマークやスイスに行ったことがある」と語るように、人の行き来がしやすいのだ。

文化が違うさまざまな人たちがいる中で生活をする、ということは一体どういうことなのだろうか。

本書では、2015年にドイツに200万人近い移民がドイツに入国したことに触れながら、「多文化共生」について自論を展開する。その考え方は「多」と「共」は完全に共存できないというものだ。

ネルケ:「多」はダイバーシティ、つまり「みんな違う」ということを許容する考えです。アフリカ系黒人と白人とアジア人、みんな違っても良い、みんな平等ということですよね。

 

ただ、その考え方は「共生」とはまったく正反対です。イスラム教では豚肉を食べてはいけないし、女性は顔を隠さないといけない決まりです。でも、日本人の大多数は豚肉を食べます。顔を隠すということも、身分証明をする際に疑われる可能性がある。

 

では、どちらに合わせるのか、という話なんです。「共」に重きを置いてしまえば、「多様性」は失われます。文化圏の違う人が共に生きるには、どちらかに合わせないといけないわけですから。一方で「多」ばかりを重んじてしまえば「共生」の方で問題になるでしょう。

ネルケ氏が語る理想的な社会は、一つの大きな丸を社会全体だとするならば、その丸の中に、赤色の小さな丸も、黄色の小さな丸、緑色、青色の丸もあって、違いを尊重し合いながら協調していく社会であると述べる。

では、日本はそんな今後、そんな社会を実現できるようになるのだろうか?

ネルケ:日本の場合、こうした社会を根付かせるのはヨーロッパよりも大変かもしれません。赤ちゃんの頃から大人になるまで、日本的な育ち方しかしません。学校の教室には日本人しかいないことが多いから、文化が異なる外国人との接し方が分からないんです。

 

共生の道を選ぶならば、大変ですが切磋琢磨するしかありません。安泰寺では海外から修行しに来ている人がいますが、すぐにいなくなってしまったりするので、最低3年以上修行する、最低限の日本語を勉強してくるなど、共生するためのルールを設けました。

 

大変な思いでやるからこそ、成長します。そういう意味では日本人はややおとなしいですよね。もう少し喧嘩をしてもいいと思います。

訪日外国人が増えつつある日本では、「多文化共生」の議論はまだまだ進んでいるとは思えない。さまざまな人たちが集うことで風通しは良くなるだろう。しかし、それは社会を不安定にさせる要因にもなる。

その観点においても、ネルケ氏の話は示唆に富む。世界の中における日本がどのように存在感を打ち出していくか、日本人が日本をどう考えるのか。26年間、日本を見続けてきた禅僧はそう問いかけているようだ。

 ◇

『曲げないドイツ人 決めない日本人』は、日本人とドイツ人の文化の比較をしつつ、禅の奥深い世界の解説も行っている。ドイツ人からどのように私たちが映っているのか、今まで知らなかった日本人像が見えてくるはずだ。

(新刊JP編集部/金井元貴)

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