東日本大震災から5年半。女川町の“本格復興期”を支える「若者力」

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東日本大震災から5年半。女川町の「本格復興期」を支える「若者力」

東日本大震災で壊滅的な被害を受けた宮城県牡鹿郡女川町。しかし、震災後すぐに若者たちが中心になり公民連携のまちづくりが急ピッチで進んだ。震災後、女川町に移住してまちづくりのキーパーソンとして活動するNPO法人アスヘノキボウ代表理事の小松洋介さんに話を聞いた。

20年後を担う若者たちを中心に公民連携のまちづくりを推進

2011年、女川町は、東日本大震災で住宅の7割が流失し、人口の8.3%に当たる827名が尊い命を失い、宮城県で最も大きな被害を受けた。けれども、震災から8日目、水道も電気も通らないなかで産業界を中心とする民間の有志がプレハブに集まり、まちづくりの準備会を開いた。その約1カ月後には、商工会、水産業関係者らを中心に、女川町復興連絡協議会を立ち上げた。

「女川町復興連絡協議会を立ち上げたときの会長が還暦で。『復興に約10年、まちづくりの成果が分かるのに、さらに10年かかる。だから、20年後に責任がとれる30代、40代にまちづくりをまかせて、還暦以上は全員顧問になって、若い人たちをサポートしたい』と託されました。若者中心のまちづくりと言われていますが、正確に言うと上の世代の人たちが若者を信頼してチャンスを与えてくれました」と、小松さん。【写真1】小松洋介さん。2013年4月に設立したNPO法人アスヘノキボウの代表理事、2014年4月から女川町商工会職員(写真提供:小松洋介さん)

【写真1】小松洋介さん。2013年4月に設立したNPO法人アスヘノキボウの代表理事、2014年4月から女川町商工会職員(写真提供:小松洋介さん)

そして、まちづくりを託された30代、40代の若い世代を中心にまちづくりのアイデアを出し、先輩たちに相談しながら、80ページにもわたる復興提言書を作成し、2012年(平成24年)1月30日に女川町と女川町議会に提出した。震災後に就任した須田町長も当時30代。話し合いながら一緒にまちをつくっていこうという話になった。

同年4月には、一般の住民も広くまちづくりに対する意見を反映できるようにと「女川町まちづくりワーキンググループ」を設置するかたわら、多彩な「まち活」が行われた。行政と町の議会、産業界、住民、みんながひとつになって一人ひとりが主体的にまちと関わり、まちをつくる原動力となった。町議会議長は、それを『四輪駆動で動くまち』と呼んでいるという。

何故、それほど早く民間の人たちがひとつになり、女川町復興連絡協議会を立ち上げ、若者がまとまったのか。「女川町は人口が約1万人(震災前)で、住宅や建物が中心部に密集していることもあり、お互いが顔見知りで、一緒に何かを始めやすい環境がありました。また、震災前から商工会青年部、水産加工研究会など、若者たちが活動する団体がたくさんありました。大きかったのは、震災前の2010年、女川の人口減少に危機感を感じて商工会を中心に『女川まちづくり塾』を発足、女川の将来について話し合っていたことです。平時の取り組みがあったからこそ、早いスピードでつながることができたのでは」(小松さん、以下同)

公民連携がカタチになったテナント型商店街が誕生

【写真2】JR女川駅は新しいシンボル的存在。1階は改札やお土産屋など、2階には震災前に駅の隣にあった「女川温泉ゆぽっぽ」が再開、3階は展望フロアがある(画像提供/女川町)

【写真2】JR女川駅は新しいシンボル的存在。1階は改札やお土産屋など、2階には震災前に駅の隣にあった「女川温泉ゆぽっぽ」が再開、3階は展望フロアがある(画像提供/女川町)

震災から4年が過ぎた2015年3月、JR石巻線が全線開通しJR「女川」駅が開業、駅舎の2階には「女川温泉ゆぽっぽ」が装いも新たに誕生した。女川駅は津波対策として、震災前より約150m内陸に移動し、約7mの高さにかさ上げした場所に再建された。そして、駅前の中心市街地を「にぎわい拠点」と位置づけ町有地にし、商業施設や公共施設を集約させた。駅開業と同時期にNPO法人アスヘノキボウが運営する創業・起業の支援拠点「女川フューチャーセンター Camass(カマス)」が誕生。同年12月には、駅前のテナント型商業施設「シーパルピア女川」、隣接地に町民が集い交流する「女川町まちなか交流館」が続々とオープンした。

商業施設「シーパルピア女川」は、行政と民間が話し合って進めたプロジェクトで、“公民連携のまちづくり”がカタチになった。

駅前から海に向かって伸びる幅15mのゆとりあるプロムナード沿いに小売店、ミニスーパー、飲食店、工房など27のテナントが並ぶ。商店街を運営する、第三セクターの女川みらい創造株式会社は商店街の隣に物産センター(仮称)を建設中(2016年12月完成予定)だ。

「シャッター街はつくりたくなかった。後継者がいないことで空き店舗がでないよう、メインストリート沿いの店はテナント型にして、エリアマネジメント機能を置くことで常ににぎわう状態をつくろうと考えました」【写真3】「シーパルピア女川」は歩行者専用道路のプロムナードと一体化した中庭空間を設け、散策や回遊をしながら住民や観光客が憩える場所になっている(画像提供/女川町)

【写真3】「シーパルピア女川」は歩行者専用道路のプロムナードと一体化した中庭空間を設け、散策や回遊をしながら住民や観光客が憩える場所になっている(画像提供/女川町)

女川町の復興は8年計画。2011~12年度の復旧期、2013~15年度の基盤整備期を経て、現在は2018年(平成30年)完成を目指し「本格復興期」に入った。駅前を中心に商業エリア、公共施設、小学校・中学校を配置し、生活の軸を集める「コンパクトシティ」計画は着々と進行している。自立再建店舗も順次オープンしており、2018年度には、商業エリアには約70店舗がそろう計画だという。

女川町の基幹産業だった水産業は、水揚げ高も回復し、水産加工場も順調に動き始めている。

人が集まり長く住み続けるために “よそ者” を積極的に受け入れる

急ピッチで復興が進められてきた5年間で良かったことは何か、小松さんに聞いた。「女川町はよそ者にも町を開いた。それで多様な人たちが集まってくるようになったと思う」。小松さんの出身は仙台市。震災時は会社員として札幌に赴任中だった。震災から2日後、福島空港経由で仙台に戻った。

その半年後の2011年9月、会社を退職し、復興のために何かしたいと宮城県内の被災地をまわっていた。「そのとき、女川町で『手伝わないか』と声をかけられて、まちづくりに参加しました。『熱量がすごい、この人たちと一緒に仕事がしたい』と思って」。2011年10月に女川町に入った。

「仙台市と女川町は同じ県内にあってもすぐ行き来できる距離にない。地元民ではない自分を町の人たちは受け入れてくれました。そして、まちづくりを進める過程でも積極的によそから来た人をオープンマインドで受け入れてきました。次第に、女川町に戻りたいというUターンの人、女川町とつながりのない起業家や学生たちがIターンで来てくれるようになり、長く通い続けてくれる人もいて。出身地も年齢も職業も関係なく、『想い』でつながって一緒に何かをやろうという人が集まるとは、5年前は想像もしませんでした」

NPO法人アスヘノキボウは、創業・起業を支援し、移住や人材育成をサポートしている。震災後に亡くなった方、住まいや仕事を失った方が多く、人口減少は加速した。アスヘノキボウは、地元にいる人たちが長く住み続けられるように、離れた人が戻ってきて、新たに住みたい人が集まるように仕事をつくるのが目的だ。女川町には国内外のまち、人との交流も広がっている。【写真4】NPO法人アスヘノキボウが運営する「女川フューチャーセンター Camass(カマス)」。コワーキングスペースや創業支援の窓口、住民の集いの場だ(画像提供/女川町)

【写真4】NPO法人アスヘノキボウが運営する「女川フューチャーセンター Camass(カマス)」。コワーキングスペースや創業支援の窓口、住民の集いの場だ(画像提供/女川町)

大切なのは他人まかせにしないで一人ひとりが動くこと

復興のトップランナーといわれる一方、被害が大きかった分、住宅に関しては宮城県内でも遅れているほうだ。女川町は街の8割以上が山林地帯で、山を切り拓いて高台に大規模な宅地を造成しなければならない。作業を始めて、調査で分からなかった堅い岩盤があることが分かり、整地に時間がかかっているという。住宅を建てられる場所は少しずつできて、自立再建住宅や災害公営住宅等が建ち始めているが、町長がかなりの数の説明会を開きながら進めているところだ。

災害大国といわれる日本では、災害は他人事ではない。小松さんは熊本県の被災地に呼ばれて話をする機会も多くある。他の被災地でも活かせるヒントはあるのだろうか。

「震災時のように町が危機的状況になって初めて、町の未来をどうするか本気で考え始めることが多いと思います。危機感が生まれることは、町がよりよく生まれかわるチャンスです。それでも町の規模、文化、産業構造、住民の気質、課題がそれぞれ違うし、町は生き物みたいに変化していくもの。女川町でうまくいったことがそのまま他の地域で活かせるとは限らないと思います」と前置きをもらったうえで、いくつかのヒントを教えてもらった。

震災直後に、商工会会長がまちづくりの指針として伝えたという『個人的な主張はやめよう』という考え方、意見は口頭ではなく、整理して文書化して提出すること。建物を建てる場合は将来のことを考えて、町の規模や身の丈にあうものをつくることなどは、まちづくりの基本であり原点といえるだろう。「大切なのは、やるかやらないか。課題を明確にして、解決策とビジョンを考えて、一人ひとりが他人まかせにしないで動くしかないと思います」と結んだ。

昨年、被災地を中心とした地域活性化支援活動で日本青年会議所から表彰された小松さんは「まちづくりのノウハウはなかったが、チャレンジしながら鍛えられた」と感じている。さらに「この5年間、急がなければとスピードを優先してきて、年配の方々と話をしたり心身のケアを考える機会が少なかったかもしれない。心のケアをする時間は待ってくれないので、今後は機会をつくっていきたい」と話す。コミュニケーションが大切だとわかっているからこその反省点だ。そして人がまちをつくり、まちが人をつくり、若者とまちが一緒に成長している証のひとつだろう。

災害直後は自分や家族のことで精一杯で余裕がない。そして「行政の動きが遅い、やってくれない」と、行政のせいにしがちだ。女川町では行政まかせにしないで、自分たちで知恵を出し合い動いた。「個人の考えや利益」は二の次に民間が団結し、上の世代が若者たちを支え、行政に提案し働きかけ協働した。普段のコミュニケーションの大切さ、タテとヨコのつながりと信頼関係など、女川町に教わることは多い。●取材協力

女川町
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