感情表現について

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内田樹の研究室

今回は内田樹さんのブログ『内田樹の研究室』からご寄稿いただきました。

感情表現について

海江田経産相が国会で落涙したことについて、週刊現代から電話取材を受けた。
「どう思いますか?」ときかれたので、こんなふうに答えた。

どうして“そういうこと”が起きるのか。
理由は二つ考えられる。
一つは“感情表現が抑制できない人が増えている”という解釈。
一つは“感情表現について抑制的である必要はない”という考え方が広く定着したという解釈。
たぶん、その両方の理由によるものだと思う。
感情は自分の内面に根拠をもっていると私たちは思いがちだが、ほんとうはそうではない。
脳科学が教えるところによれば、私たちは感情を外部にあるものの模倣を通じて学習するのである。
ミラーニューロンの働きについてはこれまでも何度も書いてきた。
他人がある動作をしているときに、それを見ているものの脳内ではそれと同じ動作を指示するニューロンが発動する。
ミラーニューロンは、行為をするときにも、知覚するときにも動くのである。
そして、子どもは感情というものを、このミラーニューロンの動きを通じて学習する。

他人の心を理解するとは、他人の振る舞いや顔の表情から、自分の脳神経回路を使って他人の心を想像するということである。(・・・)ミラーニューロンにより、他人の振る舞いを見ると、自分もそれと同じ振る舞いを仮想的にするのである。ミラーニューロンによって、他人の振る舞いを見るだけで自分の中に仮想的身体運動が起こり、他人の心と同様の状態に自分の心がなり、そうして他人を理解しているのである。

月本洋『日本人の脳に主語はいらない』講談社 2008年 118ページ

例えば、“怒り”という感情は、怒っている人間の表情や声の出し方や身ぶりを模倣することによって内面化し、学習される。
子どもの内面に感情がまずあって、それが身体表現に外化するのではない。
他人の身体表現を模倣し、それが伴う情動が内面化した結果、感情が生まれるのである。
子どもの感情が豊かになる過程を仔細(しさい)に観察していればわかる。
他人の身体表現の模倣に熟達するにつれて、子どもたちの感情は深まり、多様化する。
感情は他人の外形を模倣することで発生するわけであるから、外形抜きの“純粋感情”などというものは存在しない。

人類が致死性のウィルスで絶滅して、あなたが“人類最後の一人”になったときのことを想像して欲しい。
あなたは自分が“人類最後の一人”になったことでたいへん腹を立てている。
たぶん、その怒りをゴミ箱を蹴飛ばしたり、机をひっくり返したりして表現するはずである。
だが、どうしてあなたはそんなときにも“誰が見ても、それとわかる怒りの定型”を忠実になぞるのか?
誰も見ていないのだから、そんなことをする必要は全然ないのである。
純然たる怒りの感情だけがあって、それが身体化しなくても誰も困らない(見ている人は誰もいないのだから)。
でも、誰も見ていない場所においてでさえ、私たちは見ている人がいれば「ああ、この人は怒っているのだな」とわかるような感情表現を外形化する。
外形化せざるを得ない。
というのは、身体表現抜きで、輪郭のはっきりした感情を維持することが私たちにはできないからである。
感情とは(観客がいないと意味をなさない)社会的な記号なのである。
そして、強い感情表現は、それを見ている他者のミラーニューロンを賦活(ふかつ)させるから、他者のうちに同質の感情を作り出す。
そこにある種の一体感が醸成される。
自分の内面には“そんな感情”がなくても、それを演じているうちに“そんな感情”が自分のうちにも、自分を見ている人のうちにも生まれてくるのである。

だから、他人の内面をダイレクトに操作しようと願う人間-つまり、“政治的な人間”-は、演技的な怒りや演技的な悲しみや演劇的な苦悩に熟達するようになる。
政治家が“過剰に感情的になっている”ように見えるのは、当たり前なのである。
橋下大阪府知事や石原都知事は怒りをむき出しにすることでメディアの注目を集め続けているが、これは計算ずくのパフォーマンスだろうと思う。
“怒る人”は衆人の耳目を最優先に集めることができるからである。
成員の誰かが怒っている場合、その怒りを鎮めることは共同体の最優先課題となる。
その他の日常業務を一時停止しても、怒りを鎮めるために、資源を緊急投入せねばならない。
というのは、怒っている人間は“共同体の弱い環”だからである。
例えば、あなたが帆船の乗組員であった場合、クルー内に“常軌を逸して怒り狂っている人間”がいた場合、彼がもたらすリスクは致命的なものとなりかねない(彼は氷山や暗礁の接近を通告しないかも知れないし、羅針盤をたたき壊すかも知れないし、スープに腐肉を投じるかも知れない)。
だから、怒っている人間がいれば、私たちはその(かなり身勝手な)言い分にも耳を傾け、その要求を(できる範囲で)受け容れ、何とかして怒りを鎮めようとする。
共同体の安全のための、それがルールだからである。
「怒っている人間をそれ以上怒らせるな」というのは、人類学的な命令なのである。
“怒る政治家”たちは、それを知っている。
それを利用している。
だから、“泣く政治家”もそれに類する政治的効果を期待しているのだと私は思う。
意地悪い言い方になるが、彼は「私をもっとやさしく遇してください」と要求しているのである。
政治家に限らず、経営者たちも、メディア知識人たちも、私たちの社会の“偉い人たち”がしだいに感情を抑制する努力を怠るようになってきた。
たぶん、その方が自分たちの言い分を通すうえで効果的だということを学んだからであろう。
二昔前ではまず見ることのなかった、“いい年をした大人が怒声をあげる、泣く、ふて腐れる”という様子を私たちはもう見慣れてきている。
これはたぶん「無理に我慢しないで、感情は爆発させた方がいい」というフェミニストたちがうるさく説いた“専門的”勧告の一つの成果でもあるのだろう。
“子どもらしく/大人らしく”“男らしく/女らしく”ふるまわなければならないという社会的規範がどれほど人の心を抑圧し、傷つけているかについて、私たちは飽きるほど聴かされてきた。
“らしく”という抑圧的行動規範こそが父権制を支えているのだ。
“らしさ”の呪縛から人々は解き放たれねばならない。
人は“自分らしく”ありさえすればよい。
それ以外のすべての社会的行動規範は廃絶されるべきである。
この二十年ほどそんな話ばかりだった。
だが、そう主張した人々は“感情の成熟”ということについてどこまで真剣に考えていたのだろうか。
私たちは子どものときは“子どもらしさ”を学習し、それから順次“男らしさ/女らしさ”や“生徒らしさ”や“年長者らしさ”や“老人らしさ”を学習してゆく。さらには育児や老親の介護を通じて、“子どもに対する親らしさ”や“(親に対する)子どもらしさ”といった変化技を学習してゆく。
さらに職業によって“クラフトマンシップ”や“シーマンズシップ”のような固有のエートスを身につけてゆく。
そのようにして習得されたさまざまな“らしさ”が私たちの感情を細かく分節し、身体表現や思考を多様化し、深めてゆく。
感情の成熟とはそのことである。
“感情の学習”を止めて、“自分らしさ”の表出を優先させてゆけば、幼児期に最初に学習した“怒り、泣く”といったもっともアピーリングな“原始的感情”だけを選択的に発達させた人間ができ上がる。
そのような人間であることは、今のところ、まわりの人々の関心と配慮を一身に集めるという“利得”をもたらしている。
「怒っている人間、泣いている人間は最優先にケアすべき幼児だ」という人類学的な刷り込みが生きているからである。
けれども、今、私たちの社会では、“過度に感情的であることの利得”にあまりに多くの人々が嗜癖(しへき)し始めている。
それは私たちの社会が、“大人のいない社会”になりつつあるということを意味している。
そのことのリスクをアナウンスする人があまりに少ないので、ここに大書しておくのである。

私はこの文章を書きながらぜんぜん怒らずに“怒り”について書くということは可能かどうかわが身を用いて確かめてみた。
さて、その可否はいかがでしたでしょうか?

執筆: この記事は内田樹さんのブログ『内田樹の研究室』からご寄稿いただきました。

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