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池田信夫氏「アナログTVのほうが先に死んでしまった」 アナログ停波特番(1)

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「アナロ熊」の葬儀のセットで放送されたアナログ停波特番

 アナログテレビ放送が2011年7月24日正午に終了し、58年の歴史に幕を閉じた。ニコニコ生放送では、アナログ放送が完全停波となりテレビの画面が砂嵐に切り替わった直後の25日0時10分から「アナログ停波特番『テレビはどこへ行く』」を放送。現役のテレビプロデューサーらを迎え、ネットとテレビの未来について討論した。

 番組冒頭、元NHKのディレクターで現在は経済学者の池田信夫氏は、「テレビ放送を開始した1953年は僕の生まれた年。アナログテレビのほうが先に死んでしまった」と、アナログ放送の終了に一抹の寂しさを見せた。

[ニコニコ生放送]アナログ停波特番「テレビはど​こへ行く」 – 会員登録が必要
http://live.nicovideo.jp/watch/lv57321563?po=news&ref=news

 以下、番組を全文書き起こすかたちで紹介する。

■「アナログとデジタルは連続している」

津田大介氏(以下、津田): 皆さん、こんばんは。津田大介です。本日7月24日日曜日の正午、地上波テレビアナログ放送の番組が終了しました。「終わったんだ」というその瞬間を、皆さんツイッターとかFacebookとかにあげて盛り上がっていたわけですが、アナログ放送は今日で完全に終わるわけではなくて、震災の被害が大きかった岩手・宮城・福島の3県は、地デジへの移行が1年延期となりました。それ以外のすべての都道府県でテレビは地上デジタル放送に完全移行ということになりました。アナログ放送がスタートして58年が経過して、メディアにとっては新たな歴史の幕開けともいえる地デジ移行、今回の地上デジタル放送完全移行ですが、これからテレビはどこに向かうのか、そしてネットとテレビ、放送と通信、これの融合というのはどこまで進んでいくのか。こういったことをテレビの未来、アナログ放送終了をきっかけにして、今夜のニコニコ生放送では、ネットとテレビの未来について有識者の方と徹底討論していきたいと思っています。

 ということで、今夜のパネラーをご紹介します。まずは、元NHKのディレクターで現在経済学者の池田信夫さんです。よろしくお願いします。

池田信夫氏(以下、池田): よろしくお願いします。

津田: 池田さん、(アナログ放送が)終わりましたね。

池田: そうですね。

津田: 感慨深いものとかありますか?

池田: 実は、テレビの放送を開始した1953年というのは僕の生まれた年なんです。だから僕はアナログテレビといわば共に生きてきたわけだけど、アナログテレビのほうが先に死んでしまったという、ちょっと悲しいものがありますね。僕がNHKを辞めたのは18年前なのだけど、未だに元NHK職員とかテレビに出るとそういうスーパーが出たりする。

津田: (やしき)たかじんの番組とかだと出てきますよね。

池田: そう。それぐらいやっぱりNHKの影響力というのはすごいのだと、辞めてから改めて思っていますけど。テレビって中にいるときはわからない。作っているときはわからない。例えば「NHK特集」とか「NHKスペシャル」とかというのは、いっぺん出すと全国に1千万人とかいう人が観る。1千万人とは感覚的にわからない。こう外から見ていると、やっぱり影響力があるのだなと。むしろ逆に外に出てから、NHKを辞めてからその影響力を感じるようになりました。

津田: なるほど。NHKで番組を作られていて、現在は民放の番組とかも出られている池田さんですが、今日もそういった制作者の視点もしくはテレビビジネスみたいなものの視点でいろいろお話をうかがえればと思います。よろしくお願いします。

 続いて、フジテレビ元プロデューサーの吉田正樹さんです。よろしくお願いします。ディレクターそしてプロデューサーとして、「笑っていいとも」などフジテレビを代表する番組を沢山プロデュースされてきたと思うんですが、改めて吉田さんはテレビというのはどういう存在ですか。

吉田正樹氏(以下、吉田): 今日、奇しくもフジテレビの27時間テレビで「NO SMILE NO TV」というメッセージを出していましたが、本当にそうだと思います。テレビは色々あるけれどもテレビが発するメッセージを実にうまく出していたと思うし、今日はアナログのお通夜なのだけど僕はそんなに悲しくなくて、連続しているものではないかと。「変わらない」という感じのほうがアナログとデジタルの境目としては感じている。

津田: 吉田さんは、「ニコ生」(ニコニコ生放送)に出演するのが初めてということですが、(画面に)コメントがこんな風にどんどんモニターに出ているのを見て、どんな感じですか。

吉田: 前は大嫌いだったんですよ。

津田: ニコ生嫌いだったんですか。

吉田: ニコ生ではない、「ニコ動」(ニコニコ動画)というものが嫌い。しかしこういう風に生放送ですとかジャーナリズムをやっていただいて、僕はニコ動大好きになった。

津田: そうなんですか。

吉田: ニコ動を学ばなければ、日本の地上波はダメだという意見に変わってますから。

津田: それは単純にフジテレビを辞めたから、そういう風に言いやすくなったということではないですか。

吉田: 違います。明らかに、これはニコ動のほうが僕は変化したような気がしています。それで今日はちょっとドキドキしながらこうやって来て、返り討ちにあうのではないかと。

津田: いや、たぶん大丈夫だと思います。結構、厳しいコメントは多いが。

吉田: お待ちしています。

津田: そうですね。大丈夫だと思います。たぶん見ていれば慣れると思うので。後半は、いま吉田さんが仰っていたような本当にテレビの未来とか、ネットとテレビがどれぐらいどういう形で融合していって、どういう形の動画番組になっていくのかみたいな話ができればと思います。よろしくお願いします。

■「『ひょうきん族』をリアルタイムで観られるのが羨ましかった」

転勤族だったため全国各地でテレビを観たという宇野常寛氏

津田: 続いて、フジテレビ情報制作局情報企画部「新・週刊フジテレビ批評」プロデューサーの福原伸治さんです。

福原伸治氏(以下、福原): よろしくお願いします。こんばんは。

津田: 福原さんは、もう「週刊フジテレビ批評」でも何度かニコ生と連動をやって。

福原: 4回か5回くらいは出させていただいた。

津田: 1回目の連動企画の時には、本当のボロクソに叩かれるコメントが。

福原: 結構すごかった。

津田: でも3回目かなにかに、いや、そんなに叩くなと。この人は「『ウゴウゴルーガ』のプロデューサーだった人だぞ」と言ったら、結構温度が変わりました。意外とおっさんが観ているニコ生というのも判明したというのもあったけど、福原さんにとってテレビというのは。今まだまさに中で作られているので、振り返りというかたちで語るのは難しいと思いますが、どういうメディアですか。

福原: これは結構言うのが恥ずかしいんですが、やっぱり「人生の一部」というか、仕事だしいろいろしているので本当に表現するとしたら、そういう風なことしか言えないかなという気がします。

津田: 福原さんは、いきなりもうぶっちゃけ質問ですけど、フジテレビを辞めようと思ったことは今までないですか。

福原: あの…結構ありますよ、はい。

津田: おお。でも辞めなかったのは、やっぱり最終的にテレビが好きだから?

福原: そう。会社が好きなんです、フジテレビ。

津田: テレビが好きなのか、フジテレビが好きなのか。

福原: 「テレビも好きだし、フジテレビも好きだし」という。たぶんめちゃくちゃアウェイだが、そういう感じ。

津田: なるほど。

福原: (コメントでは)「給料高給取り」とか、そういうのを書いているけど、そういうものではないんです。なんだろう。好きですね。

津田: この(TV局を)辞めた方、まだ中にいる人というこのコントラストのなかで、今日は面白い議論が聞けるのではないかと思います。よろしくお願いします。

 最後に、評論家の宇野常寛さんです。よろしくお願いします。

宇野常寛氏(以下、宇野):よろしくお願いします。評論家の宇野です。

津田: 宇野さんは、「PLANETS」という雑誌を作られていて、その中でも積極的にテレビ評論というのをやっていると思うんですが、宇野さんにとってテレビとはどういう存在ですか。

宇野: そうですね。僕はテレビっ子だったんですね。本も好きだしゲームも好きだけれど、特に小中学生の頃というのは、テレビが一番エキサイティングでテレビが一番、こっちが想像もしないような刺激を与えてくれるメディアだった。そういった体験を未だに引きずっていて、あんまり僕の同世代が扱わないテレビドラマだったりとか、そういったものの評論もずっとやっているんです。

津田: 宇野さんの出身はどちらでしたっけ。

宇野: 僕は青森県の八戸です。

津田: はい。

宇野: でも超転勤族だったので、3~4年しか住んでいない。

津田: では、いろんなところのテレビを観ていたりする・・・。

宇野: そうなんです。だからフジ(テレビ)が映るのは都会なんです。本当に民放が3局以上あるというのは、結構「神」感があった。長崎とかにもいましたから。

津田: そうすると、一部の地域を除いて野球中継が延長するときに、「一部の地域」に入っている。

宇野: そうそう。「オレたちひょうきん族」とか「スケバン刑事」をリアルタイムで、週遅れではなく観られるというのが、僕はすごく羨ましかった。

吉田: 青森は「笑っていいとも」をやっていなかったでしょ。やっていました?

宇野: たぶんやっていなかったと思う。

津田:そんな、ある意味でテレビへの、ちゃんと観られなかった渇望感みたいなものも・・・。

宇野: ありましたね。たぶん僕が、テレビが都会と田舎を分けるひとつの基準みたいな時代を知っている最後の世代ではないかと。

津田: なるほど。そういう意味でテレビの文化論的な視点から話していただければと思います。番組をご覧のあなたからもメールをお待ちしています。テーマは直球で、「好きだったテレビ番組」もしくは「テレビというメディアに現在感じていること」を送っていただければと思います。

■「90年前後はアナログ放送の絶頂の時代」

池田信夫氏(写真・左)と津田大介氏(右)

津田: ということで、時間もないので本編に入っていきたいと思うのですが、まず、これまでのテレビの歴史をひも解いてみたいと思います。ここに一応フリップがあります。全部言っていると長いので抜かしていくと、テレビはまず1953年に国産第一号の白黒テレビが発売されて、2月1日にNHK東京テレビジョンが放送をスタートして、最初の番組は歌舞伎中継だったそうです。1955年には衆議院の選挙で開票速報を放送したのと、TBSが開局。そしてテレ朝、フジテレビが59年に開局し60年にはカラーテレビがスタートすると。

 そのあとテレビアニメがスタートしたり、カラーテレビ放送といったものがあったりした。そして69年には、甲子園でおこなわれたプロ野球の阪神対広島戦。テレビ史上初めて試合開始から終了までを完全放送し、アポロ11号の月面着陸の様子がやはり69年に放送されたということです。この頃テレビ普及で、力道山というのが街頭テレビとして有名ですが、あれって何年くらいになるのですか、力道山の頃というのは。

池田: あれは、昭和でいうと30年代半ばくらい…だから西暦でいうと1960年頃ではないですか。

津田: 本当にテレビが開局した直後くらいにだったんですね。

池田: そうそう。

津田: すみません。がんがん歴史を見ていきますが、1974年。僕が73年生まれなんですが、石油ショックの影響により1月から約半年、NHKは23時で放送終了。民放各局も深夜番組を自粛。・・・こんなことがあったんですね。へぇ。なんか今の計画停電みたいな、それの走りみたいなそういうのがあったと思います。そして78年には有名な番組「24時間テレビ・愛は地球を救う」が放送され・・・まだ「24時間テレビ」は続いてますね。そして1988年、高校野球で初のハイビジョン生中継を実施。池田さん、これはアナログハイビジョンですか。

池田: そうそう。このころ僕、ハイビジョンの番組を作っていたんです。

津田: このころの思い出はありますか?

池田: マイナーで全然放送されない番組ですからね、この高校野球は例外で。僕らはNHKで本当に関係者しか見ない番組を延々と作っていたわけですよ。まあ、画面は綺麗だけど、1回撮影に行くのに、すごくでっかい中継車と電源車とがあって、電源を入れてから2時間くらいしないとカメラが映らないという状態で、それが今小さいカメラの性能よりはるかに悪い性能だったわけだが・・・。

津田: このアナログハイビジョンというのは、今のこの地デジのハイビジョンとはまったく違うものだった。

池田: 全然違うもの。カメラは同じなんですが、要するに伝送方式はまったく違うものなんです。今のデジタル放送の規格というのも当初はHDTVという風に言っていたが、NHKもなんとなく「ハイビジョンが死んでしまった」というのは格好悪いから、(今は)「デジタルハイビジョン」という名前にしてごまかしているが、実は今のデジタル放送というのは、僕が20年前に作っていたハイビジョンとはまったく違うものなんですね。

津田: 民放にいらして、吉田さんとかはNHKのああいったハイビジョン化の動きみたいなものは、どういう風に見てらっしゃるんですか。

吉田: いずれ来るだろうなと。NHKがやって、あとから真似をする。「やれと言われるかも知れない」みたいなことだったと思いますけどね。

津田: いつぐらいに来るかみたいな、そういうのもNHKを見ておけばよかったみたいな感じだったんですね。

吉田: そうですね。

津田: なるほど。ちょっとまた歴史に戻りますが、1989年には昭和天皇が崩御されて、NHKと民放5ネットワークが同日と翌日に渡り特別編成を実施し、民放がCMを自粛しました。やはり89年というのが、メディアとしても変わり目でしたね。ちょうど平成になった年だと思うんですが。「スペースシャワーTV」とか、「朝日ニュースター」など多数のCS局が都市型ケーブルテレビ向けに放送や、配信。いわゆる日本のテレビもアメリカ型の様に多チャンネル時代への幕開けではないかということが、ここ20年くらいで開始されたということですね。

 95年には阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件、そして同事件等に絡むオウム真理教、麻原彰晃容疑者逮捕など、非常に大きな事件や事故、震災が起きて、そういった長時間の報道特番が多く組まれました。そして、野茂英雄投手がドジャースに行ってメジャーリーグでデビューしたことをNHKの衛星第1テレビが生中継して。これをきっかけに同局がメジャーリーグの中継を定期化した、と。なるほど。この95年の時には池田さんは・・・。

池田: もうNHKを辞めていた。辞めていたんですが、辞めてからもフリーのディレクターとしてまだ仕事していました、このころは。

津田: このころの報道で何か思い出は。

池田: このころは、僕のやった仕事はまじめな番組ばかりで申しわけないが、「不良債権」という、今でこそ不良債権というのは皆さん、大変な問題だとわかるでしょうけど、15年前に不良債権といっても一体何のことかということがわかる人がまずいない。しかし後になってみると、これはものすごい大変な問題だったわけだけど、それをNHK の中では僕しかやっていなかったものだから、フリーになってからも僕のところに注文がきて、「NHKスペシャル」とかBSの番組とかをよく作っていましたよ。

津田: 95年というのは、本当に阪神大震災やオウムなどいろいろな事件があった年だったわけですけど、吉田さんは当時、何をやられていたんですか。。

吉田: 僕は編成にいた。僕は80年代は「笑っていいとも!」のAD をやったり「ひょうきん族」のADをやったりして。さっきの年表ではちょっと社会的なところからやっているけど、80年代は我々のテレビ業界ってむちゃくちゃ坂を駆け上がっていくような、すごく楽しかった。90年前後「夢で逢えたら」という番組をやったり、ウッチャンナンチャン(の番組)とかダウンタウンの番組「ごっつええ感じ」もその後始まるけど、とにかく楽しくて楽しくてしょうがない。アナログ時代のある種、絶頂の時代を・・・。ドラマもすごく当たっていましたし。フジテレビは13年間トップをとるが、94年に追い越される。94年に日本テレビに抜かれて、95年(を迎えたわけ)でしたから。

津田: 僕、ちょうどまさに「ひょうきん族」世代で、小学校の時に「ひょうきん族」とTBSの「8時だョ!全員集合」。「全員集合」でドリフがとにかく強い中で、それのカウンターというかアンチみたいな形で、後から出てきて。クラスの中もドリフ派かひょうきん族派かでわかれるみたいなのがあったんですけど、後発だった「ひょうきん族」はどういう風な形でドリフを倒していったのでしょうか。

吉田: 語らい過ぎているかもしれない。ドリフが非常に稽古をしてやる、と。完璧な台本のままにやるというスタイルがあったとすれば、「ひょうきん族」はアドリブでやった。(「全員集合」は)ちゃんと後半に歌謡曲をやるんです。前半コントがあって、タッタタッタタラッタと歌うと回る舞台があって、歌があって、体操したりコーナーになっていくわけ。そこに後半にタケちゃんマン当てたら、上がるじゃないかということで徐々に当たっていく。

 でも結局、「ひょうきん族」は「全員集合」を倒すわけですが、その後ちゃんと「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」とスタイルを変えてやられたのに80年代後半は抜かれて、最後は一ケタになって89年に終わりますから。土曜日8時は、とても思い出深い、栄枯盛衰の歴史があったんですね。そこから影響を受けて、みんなその後の「お笑い第三世代」というような人たちが出てきたと。95年って、「めちゃ×2イケテルッ!」とか「SMAP×SMAP」とか、今も続いているものがそろそろ始まろうかという胎動の時期というかチェンジの時期ですよね。番組としては、日本テレビでまさしく「進め!電波少年」が全盛期だったと。

津田: 福原さんは何年入社だったんですか。

福原: 僕は86年入社なんです。だから(吉田氏は)3つ先輩。入って「笑っていいとも!」に研修に行った時に、吉田さんとかがADされてて。「冗談画報」の研修で・・・。

吉田: 内輪の話になるというのは・・・楽しかった時代ですね、80年代というのは。

津田: 実際それで3つ上の近い先輩の後ろ姿を見ていて、どういったものを福原さんは学んだのですか。

福原: 吉田さんはメインストリートをずっと歩いていて、バラエティのど真ん中なんです。吉田さんは、「夢で逢えたら」なんてすごい番組やって、「ほんと吉田さんの作る番組はすごいな」っていう風に言った覚えのあるくらいすごいメインストリート。

吉田: (そんな風に)言われたことはないと思う(笑)。

福原:メインストリートを歩いている人で、僕なんか本当に端っこの方、未だにそうなのだが、ずっと歩いてきた。そういう感じなので。そんなにこう、フジテレビの「良かった時代」と言われても、そんなに恩恵を受けたような気があまりしない。「よかった時代」がその頃というよりも、今も「やっぱりいいな」という風なそういう感じなんですよ。あんまり昔がどうのこうのっていうのなんて覚えてないというか、それが正直なところですよね。

「尾木ママがBPOの委員だった」 アナログ停波特番(2)
http://news.nicovideo.jp/watch/nw91590

(協力・書き起こし.com

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