「高津の宮の昔より…」 大阪市存続決定で『大阪市歌』に注目が集まる
大阪市の存続か廃止かをめぐって激しく争われた『大阪都』構想の住民投票は賛成(大阪市廃止)が69万4844票、反対(大阪市存続)が70万5585票となり1万741票差と非常に僅差ながら反対票が上回って大阪市の存続が決定しました。この結果を受け『大阪都』構想を推進して来た橋下徹市長は次回の市長選挙に出馬せず、今期限りで退任する意向を表明しましたが、市民を二分する激しい選挙戦が残した大きな禍根の傷が癒えるには、まだしばらく時間がかかりそうです。
そして、この選挙戦の中で密かに大阪市内外の注目を集めていたのが1921年(大正10年)に制定された大阪市歌の扱いでした。『大阪市歌』は第6代大阪市長の池上四郎が北区中之島の3代目大阪市庁舎(1982年に解体、現存せず)竣工を記念して制定を提唱し、全国から集まった2398編の歌詞を審査して香川県の旧制中学校校長・堀沢周安(ほりさわ ちかやす、1869-1941)の応募作が一等入選で採用されました。
堀沢は愛知県丹羽郡犬山町(現在の犬山市)出身で上京して教員免許を取得し、香川県や愛媛県の旧制中学校で国語教員として活動しながら数多くの校歌や市町村歌を作詞した人物で代表作の『大阪市歌』の他に『高松市歌(その二)』や文部省唱歌『いなかの四季』『明治節』などの作品があります。作曲は『早春賦』で知られる東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)助教授の中田章(1886-1931)で、次男の中田一次と三男の中田喜直も作曲家として大成しました。
仁徳天皇が難波高津宮の高台から街を見下ろした際、民家から食事の準備をするかまどの煙が立ちのぼっていないことに気付いて徴税を3年間停止し、自らも質素倹約に務めたと言う故事から始まり、大正期の市域拡大で一時的に東京市を抜いて全国一の大都市になった時代の繁栄をおだやかな曲調の旋律に乗せて歌う市歌は今なお多くの市民に親しまれています。今回の住民投票に際しては、大阪市存続を求める陣営の街宣車が市歌をBGMに使用したり反対集会で誰からともなくこの市歌を歌い出して合唱となる場面も見られました。
大阪市歌
作詞・堀沢周安 作曲・中田章
一、高津の宮の 昔より
よよの栄を 重ねきて
民のかまどに 立つ煙
にぎわいまさる 大阪市
にぎわいまさる 大阪市二、なにわの春の あさぼらけ
生気ちまたにみなぎりて
物みな動く なりわいの
力ぞ強き 大阪市
力ぞ強き 大阪市三、東洋一の 商工地
咲くやこの花 さきがけて
よもに香りを 送るべき
務(つとめ)ぞ重き 大阪市
務ぞ重き 大阪市※歌詞・曲とも著作権保護期間満了
大阪府(『大阪都』構想と言う名称からよく誤解されていましたが、仮に賛成が多数になっても直ちに大阪府が「大阪都」に改称するわけではありませんでした)は広島県・大分県と共に今や全国で3府県のみとなっている都道府県歌を制定していない府県の1つであるため、「大阪市が廃止・解体された場合は道連れで大阪市歌も廃止されるのではないか」と心配する声も多く、また賛成の側でも「大阪市歌が無くなるのは惜しい」という声が聞かれました。
もっとも、東京市が1926年(大正15年)に制定した『東京市歌』は市が戦時中の1943年(昭和18年)に東京府と共に解体・併合されて東京都となった後、1947年(昭和22年)に『東京都歌』が制定されながらも準都歌のような扱いで残されて現在に至っています。ただ『東京市歌』の場合は「東京市」が歌詞に含まれておらず「大東京」と呼ばれているので、大阪市の場合は住民投票で市の廃止が決まっていたら「大阪市」を歌詞に含んでいる『大阪市歌』の存続は都合が悪いと言う判断がなされていた可能性があります。歴史に「もし」は無いとは言え、1万741票の反対票は126年続いた大阪市と共に制定から94年にわたり市民に愛されて来た『大阪市歌』をも救ったと言えるかも知れません。
画像‥大阪市公式サイトより『大阪市歌』の紹介ページ
http://www.city.osaka.lg.jp/seisakukikakushitsu/page/0000028864.html [リンク]
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