【歴史】徳川家康には20人以上の妻と妾がいたことが判明! けしからん状態だった

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政略結婚は家や国にとっては万々歳でも、当人達にとって不本意な状態であることが多いですよね。中には「一緒に暮らしてみたら仲良くなれました」ということもありますが、それはごく一部。天正十四年(1586年)の4月28日、徳川家康に嫁がされた秀吉の妹・朝日姫も相当迷惑に思っていたうちの一人でしょう。既に結婚していたのに、無理やり離婚させられて家康の継室になったのですから。

何でそんなことをしたのかというと、話は単純です。信長の死後、秀吉は織田家内の重臣を討ったり懐柔したりして天下人への道を歩みました。その中でどうにもうまくいかなかったのが、信長が死ぬまで同盟関係を保ち続けた家康だったのです。他家である上に家臣団の結束も固く、簡単に崩せる相手ではありません。そこで秀吉が最後の手段として用いたのが、妹を使った政略結婚だったというわけです。

・わずか2年で徳川のもとを離れカムバック
さて、家康の元へ輿入れした朝日姫ですが、彼女もジッとはしておりませんでした。婚姻からわずか2年後には、「母のお見舞いに行って来ます」といって京都の聚楽第に移り、それ以降、徳川へは戻らなかったのです。

もともとが家康を丸め込むための結婚ですから、秀吉も「もうアイツは裏切りそうにないな。なら追い返す理由もないな!」と思っていたのでしょう。その後は朝日姫自身も病気がちになったそうで、別居からこれまた2年後に亡くなっています。

というわけでさっそく書くべきことがなくなってしまうのですが、ついでですから狸・家康の奥事情をもう少し見ていきましょう。記録されている名前だけで20人以上いるので、今回は上のほうの息子を産んだ人や強烈なエピソードが残っている人だけですが。以下、本名もしくは通称が違う女性とダブってしまう方については出家後もしくは戒名で書かせていただきますね。

・築山殿
皆さんご存知、家康の最初の正室です。今川義元の姪っ子で、家康がかつて今川家に臣従していた頃に結婚しました。そんな関係だったからか、あるいは余程性格が合わなかったのか、当初から仲睦まじい夫婦とはいえなかったようです。それでも長男・信康が生まれたのですから、家康の律儀さというか何というか。

信長からの疑いによって築山殿も信康も処分されることになってしまいましたが、もし最初から双方が歩み寄っていればまた違った結末になったのかもしれません。
その場合、江戸幕府の二代将軍は当然信康になったでしょうし……この先は影響がデカすぎて想像を広げるの自体が難しいですね。

・長勝院(結城秀康生母)
決して無能ではないのに冷遇された家康の次男、結城秀康の母親です。当初築山殿の身の回りの世話役を務めており、そのうち家康の目に留まってお手つきになりました。秀康がお腹にいた頃「築山殿の嫉妬に遭い、服を剥ぎ取られて真夜中の庭木にくくりつけられた」という逸話がありますが、その頃には別々の場所に住んでいたため、後世の創作の可能性大だそうです。

何かと悪者にされる築山殿がかわいそうですね。彼女は秀康よりも長生きしているのですが、息子が亡くなったとき家康の許可を待たずに出家したといいます。カーチャンだけでも愛してくれて良かったな秀康! お咎めがなかったのは、多分家康もそれをわかっていたからなのでしょう。もうどうでもよかったなんてそんなまさか。……まさか。

・西郷局
三男・秀忠と四男・松平忠吉のお母さんです。一度結婚していたものの、夫に先立たれて未亡人となり、家康に気に入られて奥に入りました。現代的な感覚で言えば将軍の母=勝ち組ですが、彼女自身が秀吉の時代に28歳の若さで亡くなっているため、お江との嫁姑問題や江戸幕府への影響はほとんどなかったと思われます。

美人かつ心優しい女性だったらしく、家康はもちろん家臣や侍女にも相当慕われていたようです。理由は不明ですが近眼だったそうで、目を患った女性の支援を行っており、亡くなったときにはかつて恩を受けた女性たちがこぞって彼女の冥福を祈りに来たといわれています。

当時の平均寿命的に考えると江戸時代初期まで生きていてもおかしくはありませんが、その場合忠吉の早世を目の当たりにすることになるので、どちらにしろ哀れな人ということになってしまいますね。あまり有名な人ではありませんが、佳人薄命をまさに地で行くような人生でした。

・お勝の方(お梶の方)
幼い頃から賢さで知られた人です。最初は「お梶の方」と呼ばれていました。彼女の逸話で有名なのは、家康があるとき、家臣たちに「一番美味いものと一番まずいものは何か?」と尋ねたときの話でしょう。

皆どちらかというと自分の好き嫌いを披露していたかと思われますが、彼女は「一番美味しいものも一番まずいものも塩です。どんなものでも塩で適度に味を調えなければ美味しくならず、だからといって入れすぎたり塩そのままでは食べられない」という実に理に適った返答をしました。ぐうの音も出ません。

その頭脳を買われてか、関が原や大阪の役にも男装・騎乗で同行したそうです。特に関が原のときには「この勝利はお梶がいたからに違いない! お前は今日から『お勝』と名乗れ!」と言われて改名したといわれています。家康のテンションが上がった話とか珍しいですね。

その他にも倹約家だったことがより家康の気に入ったらしく、家康の死後も幕閣から一定以上の尊敬を受けていました。後に春日局が台頭したときにも、お勝の方のほうが序列が上だったほどです。江戸幕府随一のキャリアウーマンといっていいでしょうね。

・雲光院(阿茶局)
出家前は「阿茶局」と呼ばれていました。ただし彼女が髪を落としたのは家康だけでなく秀忠も亡くなった後のことです。というのも、側室の中でお勝の方に並んで家康の信頼が厚かったため、「秀忠をよろしく頼む」といわれていたのでした。

お勝の方より23歳も年上なんですが、亡くなったのは5年しか変わりません。頭脳に加えてその健康さも家康のお気に入りだったんでしょうね。特にこの二人が対立したとか揉めたという話はないようですから、おそらくはお勝の方が阿茶局を立てるような感じでうまくやっていたのでしょう。頭のいい人同士ならではという感じがしますね。

・茶阿局
家康六男・松平忠輝とその弟・松千代の母親です。既婚者だったにもかかわらず土地の代官に言い寄られ、はねつけたところ代官が逆ギレして夫を殺してしまったため、娘を連れて家康に直訴したというなかなか肝の据わった女性でした。

その場で家康に気に入られ、娘と共に引き取ったといわれているのですが、代官の方はその後どうなったのやら記録がありません。典型的なモブ扱いですね。家康に寵愛された側室の一人ですが、その割に上記の「阿茶局」と似た呼び名をつけられたあたりが解せません。

松千代は夭折してしまいましたが、忠輝は順調に育ち順風満帆……とはいきませんでした。忠輝は母に取り成しを頼みましたが、家康は最期まで許さず、生前の再会は叶いませんでした。茶阿局も悲しんでいたでしょうね……。

こうしてみると、やはり賢い女性ほど後々まで良い立場にいられたことがわかりますね。朝日姫がどんな女性だったかは記録が少なすぎてよくわかりませんけども。決して狸がただの「後家好き(ただし晩年は○リ○ン)」ではなかったという証拠にしておきましょうか。

執筆: 武将ジャパン

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