本屋だけど紙の本を絶滅させる方法を真剣に考えてみた。(天狼院通信)
今回は天狼院書店さんのブログ『天狼院通信』からご寄稿いただきました。
本屋だけど紙の本を絶滅させる方法を真剣に考えてみた。(天狼院通信)
実は数年前、僕は真剣に電子書籍に参入しようと考えていた。
様々リサーチして、日本の電子書籍のパイオニアのような方にも会って、確信したことがあった。
これから、5年間、電子書籍がブレイクスルー・ポイントを迎える可能性は極めて低い。
とてもがっかりしたことを覚えている。
黎明期に本格的に参入して、面白いことを連発すれば、勝てると思っていたのだ。
それは、天狼院書店をオープンさせる前の年のことだったので、2012年の終わり頃のことだったろうと思う。
今は2015年だから、あれから3年経ったということだが、予想通り、電子書籍は当初思われていた、出版界が戦々恐々としていた規模のブレイクスルーを得られないでいる。
僕も、発売日にキンドル・ペーパーホワイトを買って、新しい時代の幕開けを楽しもうと思ったのだが、そのキンドルは、今やどこに行ったかすら定かではない。
ともかく、僕はその自分の仮説を信じてリアル書店をオープンさせた。
逆に、僕が「安全期間」と設定したその期間内に、天狼院を全国に10作ることに決めた。
その計画通りに、今、僕は経営を進めているわけだが、今、様々な大手企業とのコラボレーションの話が舞い込んできて、事業が本気の拡張期を迎えるに当たり、本気で紙の本について考えてみようと思った。
これから、とりとめのない思考実験をしてみようと思う。
本屋の立場から、紙の本の良さを上げていったら、きっと情緒的なノスタルジックな懐古主義的な話になって、そこに「顧客」が不在になることは目に見えている。時間の無駄である。
そうではなくて、ある種のインベーダーとして「僕が電子書籍業者なら」、と仮定して、とてもとても「しぶとくて」邪魔である紙の本を絶滅させる方法を真剣に考えてみようと思う。
そう、紙の本は、実にしぶといのだ。iTunesの登場によって、CDはほとんど壊滅状態である。握手券とか何らかの付加価値をつけなければ商材として「ダウンロード」に太刀打ち出来ない。だから、本屋以上に、CDショップは壊滅的である。その「物」としての小売市場の縮小が、怖くなるほどに早い。
それが、本の世界にも起きると多くの人が考えた。
僕もそうだと思っていた。
ところが、本はしぶとい。
なかなか、絶滅危惧種にはならない。
本は「物」として、際立っている。
美しい。
インテリアの中でも、不可欠な存在になる場合がある。
そして「積ん読」においては、キンドルの中で積むよりも、やはり、物理的に積んでいた方が精神的に圧迫感がある。
また「物」として出会った時に「所有欲」を喚起させる。それは、つまり、娯楽としての買い物という側面において、「物」としての本は圧倒的に有利であるということだ。
また、物理的にドッグイヤーできて、物理的に書き込めて、物理的に読書進度を確認できる。
つまり、体験としての「読書」が可能となる。
翻って考えれば、電子書籍は、その点を追求しても本末転倒になるということだ。
意味が無い。
せっかく「車」という新しい可能性として世間を席巻しようとしているのに、それは例えば「馬の毛艶」にこだわっているようなものだ。
アプローチと、電子書籍とは何なのかをもう一度考えなければ、このまま、多くのキンドルは再び電源を入れられずに、小さなチップの中で、本を模したそのデータは永久に失われてしまうことになる。存在しなかったことにもなりかねない。
ならば、どうすればいいか。
まずは、もはや、「馬」であることにこだわるべきではないということだ。
「電子書籍」という名前に引きづられて、まじめに「書籍」を目指すくらいばかげたことはない。
メモとして書き込むのも、マーカーを引くのも、リアルの紙に敵うはずがない。
それは、機械で馬の毛を作るのは難しいのと同じことだ。
また、たとえばキンドルなら、旅先に数千冊の本を持って行くことができるという概念を、僕も真に受けて、それはいいと当初は思ったが、冷静に考えてみるとわかるはずだ。
旅先で読める本は、1冊か、せいぜい2冊くらいなものだ。
それくらい、バッグに入れても、キンドルとさほど変わらない。
極めつけで意味がわからないのは、本屋で電子書籍を売るという判断だ。
これ、本当に大人が真面目に考えてやっているのだろうか。
だれか「あれ?」と気づかないのだろうか。
電子書籍の利点は、書店がなくてでも本が買えることなのに、本屋で買えば本末転倒ではないか。
そこに、書店の既得権とそれに気を使わなければならない取次や出版社の慮りがあったとしても、「顧客」は完全に不在である。
つまり、どこもかしこも誰も彼もが、せっかくの新しい可能性を「車」の利点を高めるのではなく、「馬」に寄せようと四苦八苦しているようにしか見えない。
まるで、喜劇だ。
電子書籍が、しっかりとした産業として伸びなかったもっとも大きな理由は、国かどこかが、震災に関連して、ジャブジャブと補助金を出したことにあると僕は勝手にみている。
いつだって、どこの世界でだって、新しい世界を切り拓くのは、フロンティア・スピリットだ。
そして、そのフロンティア・スピリットを最もダメにしてしまうのは、補助金など、政府系のお金である。
たとえば、逆に紙の書籍の方に、補助金をジャブジャブとつぎ込めばどうかと考えてみる。
電子書籍をものすごく冷遇して、紙を信じられないほどに優遇すれば、きっと、そこに本物の電子書籍アントレプレナーが現れる。
そう、ひとつの仮定として、紙の書籍に補助金をジャブジャブとつぎ込めば、紙の書籍の業界は清朝の末期ように「アヘン」中毒になるので、絶滅により近くなるだろう。
そのときに、おそらく、業界は「売れないコンサルタント」に蹂躙されて、書店に本当のビジネスマンがいなくなる。
そして、補助金が尽きたときに、その業界は一旦、荒野になる。
しかし、それでもなお、本がそうやすやすと滅びるとは到底思えない。
しぶとく、灰の中から救い出されて、まるで『火の鳥』のように蘇るように思えてならない。
なぜなら、CDはデータが込められた媒体に過ぎないが、本は「物」である側面が非常に強いからだ。
「物」に人は、強烈な愛着を抱く。
たとえば、10年後に押入れから出てきて、涙が溢れて止まらなくなるのは、電子データではなく、古びたアルバムである。
この需要はそう簡単に消せるものではなく、「車」が普及しても「馬」が絶滅するはずがないように、きっと「本」も未来永劫生き残る。
絶滅しきれるはずがない。
たとえば、焚書坑儒があったとしても、本は「物」として蘇る。
それこそ、なお、強靭によみがえる。
美しい装飾を身にまとい、電子データとは圧倒的に差別化された「物」として、人々の「所有欲」を刺激するだろう。
そう、壊滅と淘汰をくぐり抜けたときに、今以上に「本」は高価なものとなる。「紙の本」を出版することがステータスとなる。
まもなく、そんな時代が来る。
だとすれば、電子書籍が伸びる可能性とは、どこにあるだろうか。
おそらく、電子書籍が伸びたとしても、紙の書籍は淘汰されることはない。絶滅させることはできない。
しかし、すでに紙の書籍の淘汰が進んでいる部分がある。地図や時刻表、グルメガイド、テレビガイドなどの分野に顕著である。
インターネットの普及と生活様式の変化がもたらした、それは「必然的縮小」というものだ。
じつは、それは広義の意味での「電子書籍」が侵食したものだと僕は見ている。
そう、「馬」を目指さない、本質的な意味での「電子書籍」は、キンドルの中には存在しない。
もはや、我々が誰もが持つ、スマホの中に、散りばめらているのだ。
そう、本質的な意味での「馬」に対する「車」としての「電子書籍」は、何も、256ページの体裁をとる必要がないのだ。
1ページであっていい。
Googleマップであってよく、食べログであってよく、Yahoo!経路検索であってよく、地上波デジタル放送における番組表であっていい。
つまり、ネットの世界においては、本はパッケージである必要がない。
我々が読む、ダイヤモンド・オンラインや東洋経済オンラインや日経ビジネスオンラインや現代ビジネスのひとつの記事は、すでに広義の意味での、本質的な意味での「電子書籍」なのである。
そう、すでに、我々が気づかない間に「電子書籍」革命は成就していたのだ。
紙の本ではできないことを、それらはもうすでに成し遂げている。
つまり、「書籍」を目指している「電子書籍」は、結局は良くて「付録」の位置づけにしかならないだろう。
紙の書籍を買って、必ずついてくる付録としての役割ならば、いくらかある。
また、エロやグロなど、「物」として買いにくい分野には浸透して行き、「馬」としての「電子書籍」のほとんどのキャッシュポイントは、そこに集約されていくだろう。ここでしか、「物」としての書籍や、「車」としての「電子書籍」に対抗することはできない。
もはや、名前すら忘れたが、セカンドなんとかという仮想世界が世の中を席巻するのではないかと言われたことがあったが、ほとんどの人が「ああ、あったね」くらいにしか思い出せないだろうと思う。
「馬」としての「電子書籍」は、まさにその方向性である。
ネットの世界は、現実とは違うところでその利点を活かさなければならないのに、セカンドなんとかはリアルな世界をネットの中に作ろうとした。
あれではなく、サイバーエージェントのピグの方がはるかに流行った。自分をデフォルメできるのは、リアルでは難しく、ネットではたやすい。その利点を活かしたからだ。
つまり、滅びる可能性が高いのは、実は紙の書籍のほうではなく、むしろ「馬」としての「電子書籍」のほうだと僕は確信して思うのだ。
そして、それ以上に、「車」としての「電子書籍」がこれからも両者をとてもつもない勢いで侵食していくだろう。
それが僕のとりとめのない思考実験の結論である。
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余談ではあるが、
5年間は「馬」としての「電子書籍」はブレイクスルーしないと僕は早くから人にも言っていた。
その中には、こう聞いてくる人がいる。
「その先はどうなると思いますか?」
実に、答えにくい質問である。
僕はきっと苦笑しただろう。
実は、もう考えてある。というか、だいぶ前から、起業した6年前から、それを真剣に考えてきた。
当時は、笑われたものだった。
先日、そのときから僕を知る、とある出版社の友人が天狼院を訪れた。その友人がこういった。
「そういえば、三浦さん、だいぶ前に、あの荒唐無稽な話を真剣に話していましたよね!」
と快活に思い出し笑いをした。
ところが、僕と、そのときレジにいたなっちゃんは笑わずに、視線を合わせて苦笑した。
まさか、と彼は目を見開くようにして言った。
「まさか、まだ、本気であれをやろうと思っているんですか?」
僕は苦笑して頷く。
「ちょうど、昨日、そのことについて、お好み焼き屋でなっちゃんとも話したんだよ」
と、なっちゃんを振り返る。
なっちゃんは笑顔で彼に頷く。
「僕は、本気でいけると思っているんだよ。あと5年以内には実用化できるはずだ」
彼は、もう、僕を笑いはしなかった。
真剣な眼差しがそこにはあった。
それは、「馬」の「電子書籍」が市場を本当に席巻する、唯一の方法だった。
執筆: この記事は天狼院書店さんのブログ『天狼院通信』からご寄稿いただきました。
寄稿いただいた記事は2015年05月06日時点のものです。
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