予断のできないフランス・ミステリー『悪意の波紋』
『ミレニアム』三部作により北欧ミステリーが注目されるようになり、フェルディナント・フォン・シーラッハが登場してドイツの作品が脚光を浴びた。ここ数年の翻訳ミステリー界はそうした「発掘」が目立つ。昨年の最大の話題といえば、ピーター・ルメートル『その女アレックス』が翻訳ミステリーとしては記録的なベストセラーとなったことだろう。さあ、今度はフランス・ミステリーが再評価される番だ。
フランスといえば犯罪小説の宝庫である。第二次世界大戦前に表現のピークを迎えたアメリカ犯罪映画が一つの手本となり、戦後にはその影響を受けたスタイリッシュな作品がかの国では多数書かれた。オーギュスト・ル・ブルトン『男の争い』などの諸作である。やがて1960年代の政治の季節を通過すると、今度はネオ・ポラールと呼ばれる革新的な作家が登場するようになった。その代表者が『愚者が出てくる、城寨が見える』などで知られるジャン=パトリック・マンシェットだ。
また、それらと並行して、セバスチャン・ジャプリゾ(『シンデレラの罠』)やミシェル・ルブラン(『殺人四重奏』)といったツイストの効いたプロットを駆使する作家も活躍した。彼らの作品には、殺気と稚気、色気、といったさまざまな要素が封じ込められており、ミステリーはそれらの香気を吸収して、より洗練されたものへと進化したのである。
エルヴェ・コメールは、そうしたフランス・ミステリーの正統を受け継ぐ者として期待される新人の一人である。集英社文庫から刊行された『悪意の波紋』は彼の第2長篇であり、オールド・ファンを驚喜させた、あの香気が作中には満ち満ちている。
冒頭ではまず、1971年にアメリカで起きた、ある事件が手短に紹介される。とある大富豪がフランク・シナトラの引退公演を聴きに行っている隙に、その自宅を五人組の強盗が襲った。彼らは持ち出した美術品の身代金として100万ドルを要求し、まんまと奪取に成功する。しかし、彼らは知らなかったのである。自分たちが面に泥を塗った相手、ジョン・コスターノが、実は暗黒街の大立者であったということを。しでかしてしまった事の大きさに恐怖した強盗たちは、金を山分けして散り散りに逃げ、以降は完全に沈黙を守る。
事件から40年の歳月が過ぎた。強盗団の1人であるジャックは、今はレンヌに邸を構え、悠々自適の生活を送っていた。何回かの刑務所暮らしを送りはしたが、その代償として大金を掴み、引退したのだ。ある日、邸の郵便受けに匿名の手紙が投げこまれる。その中には、男たちの集合写真が入っていた。赤鉛筆で5人の顔に印がつけられている。言うまでもなく、40年前のあの強盗たちの顔だ。ついに過去が追いついてきたのである。
この〈ジャック〉の章と並行して語られていくのが〈イヴァン〉の章だ。イヴァンはウェイターとして働く青年だ。彼の元の恋人ガエルは、今ではテレビのリアリティー・ショーの出演者として世間に注目される存在になっていた。彼女を画面で見ることに耐えられず、イヴァンは競争相手たちに票を投じるべくSNSの通信料を浪費するが、なかなかガエルは落選してくれない。それどころかとんでもないことを始めてしまった。イヴァンが彼女に送ったラブレターを番組中で朗読し、それが受けると見るや、実家にまだ在庫がたくさんあるから、取り寄せてそれも紹介する、と言い出したのだ。イヴァンの神経はそれで完全に壊れた。仕事を途中で投げ出し、ウェイターの制服のままで彼は旅立つ。ガエルの実家に忍び込み、ラブレターを取り返すためだ。
この2つの発端が、挑発するかのように読者の眼前に投げ出される。一方は古式ゆかしい犯罪小説のプロットの始まりに見えるし、もう一方はスラプスティック・コメディのそれのようでもある。まったく交点の見えない2つの物語は軽快に突き進んでいく。〈俺〉ことジャックと〈僕〉ことイヴァンはどこかで出会うのか。そして2人の人生にはどのような共通点がありうるのか。登場人物がちが右往左往させられる様は、マグネットを足にくくりつけられた人形が、紙の下で動き回る鉄に引っ張られて疾走するのを見ているようだ。まったく予断のできない群像劇であり、謎の牽引力が半端ではない佳作スリラーである。
(杉江松恋)
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