藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」#15ヨガ

031901

五千年の歴史があると伝わるヨガ。かの釈迦もヨガ愛好家だったし、禅も元を辿ればヨガの一行法だという。
言わば、ヒーリング界の鉄板といった分厚い存在感を示すヨガ。私も二十代から興味を持ち続けていたのだが、実際始めたのは四十の声を聞いてからだった。
なにしろ人一倍体が固く、部分的にはプラスチック製かと思われるほどだったので、ヨガの超人的な柔らかさを示すポーズのイメージから、興味はあれども敬遠せざるをえなかった。
だが、いつまでも門前で踵を返してばかりもいられないだろうと、ハーフ大決心して(一大というほどではない)二年前の年暮れにインドのヨガタウンとして名高いリシケシに赴き、一ヶ月間滞在してしまった。
その滞在中の詳しい出来事などは、後日に紙幅を用意するとして、ここでは割愛させていただくとしよう。
結果から言えば、リシケシでの滞在は素晴らしく、いつも脇にヨガマットを抱えている姿が少しは様になったように思う。
女性のヨガの愛好家をヨギーニと呼ぶのに対し、男性はヨギと呼ばれる。私はわずか一ヶ月のヨガ体験でしかないのに、ちょっとしたヨギな気分でインドから帰り、ほぼ毎朝ヨガをするに至っている。ちなみに沖縄には与儀という地名があり、通りかかるとリシケシを思い出す人は私の他にどのくらいいるのだろうか?
ここではスペース上の理由から、ヨガの歴史、効果、流派などのついての解説は省略するが、これから始めたいという人には、何でもいいから始めたらいいです、と本心から思う。
それがどういう動機であれ、まずは門をくぐることからしか始まらないとして、流派などは最初はこだわらなくてもいいと思う。出来たら2、3クラス見て回るのがよりいい。クラスやインストラクターの雰囲気は結構違うが、自分の直感で選べばいい。
汗をたっぷりかかせてくれるフィジカル負荷の高いヨガも私は好きだし、瞑想的に自分とゆったり向き合えるヨガも大切だ。それぞれの特性を見極めた上で、いろいろ使い分けするのもいいと思う。
リシケシでは日替わりに飛び込みで数多のクラスを受講できたので、旅行を兼ねて、いきなりインドもありかもしれない。インドにも多くのヨガタウンがあるが、リシケシはヨガデパート的な場所で、流派やクラスが選り取り出来るメリットがある。こういう街は意外と無く、例えばマイソールはアシュタンガヨガと決まっている。

2ページ目につづく

031902

さて、前述したように私の体は信じられないほど固かったのだが、ヨガをやり続けていることで、なんとか常人なみの固さになったように思う。
ヨガの話題になると、体が固いから無理だと思っている人が、意外というか、やはりというか、とても多い。結論から言うと、ポーズを完成させることは最重要ではない。正しい体の方向付けは必要だが、完成はその延長線にあっても目的ではない。このことは多くのインストラクターが口を揃えて言うので、間違いないだろうし、自分も納得している。
話の流れが前後してしまうが、そもそもヨガはポーズを取ることと誤解されているが、それは奥深いヨガの一面に過ぎない。
ちょっとだけ解説すると、ヨガには8段階(アシュタンガ)と呼ばれるプロセスがあって、アーサナと呼ばれるポーズを取るヨガは3番目に数えられる1プロセスに過ぎない。ちなみに到達点である8番目はサマディと呼ばれ、悟りの状態に達することを言う。1つ手前の7番目は瞑想のディヤーナであり、瞑想だけでもかなり立派なヨガなのだ。
さすがにサマディとなると、むしろ宗教的な興味の範疇に入ってくるだろう。ここでは、ヨガとして一般的に認知されている三番目のアーサナと呼ばれるポーズを中心としたヨガを語るに留めようかと思う。
私が毎朝やっているのは、基本的かつ到達的でもある太陽礼拝というやつだ。ほぼこれしかやっていないと言っていいだろう。体の各部をバランス良く刺激出来るし、丁寧にやることで習熟して行く楽しみも味わえる。
1つのポーズをマスターして、はい次、と行くのもモチベーションを高めるやり方だが、私はこのヨガに限っては、同じ物を繰り返しながら味わうのが好きだ。
この太陽礼拝をベースに特に刺激したい箇所があればそこに向けて別のポーズを織り交ぜていくというのが、今の自分のヨガのやり方となっているし、ヨギーニ、ヨギそれぞれに自分のルーチンや傾向があると思う。
太陽礼拝については、雑誌や書籍、ネットなどで沢山あるので、そちらを見ていただきたい。インストラクターによって、細部のニュアンスが異なるが、あまり気にしなくていいと思う。ヨガはマークシートの答案を埋めることとは真逆なので、朗らかにやりたいものだ。
で、ヨガのいったい何処がいいのか?ということだが、ざっくりと一言で済ますなら、「今に戻って来られる」となるだろう。これは私の実感でもあるし、多くのヨガを愛する人のそれとも重なると思う。

3ページ目につづく

031903

「今に戻って来られる」
敢えて、「今に居られる」ではなく「戻ってこられる」と記したのは、私達は「今現在」を留守がちだからだ。
やたらと目標に邁進する未来派、過去の経験を拠り所とする過去派に対して、今を楽しもうとする今派は、ちょっとキリギリス的で、経済優先の競争社会では、ちょっとした異端である。
だが、実際存在しているのはこの瞬間の今だけではないだろうか?(今、さえも存在していない云々についてはまた別の機会に)
未来はまだ存在していないし、過去はもう存在していない。
それを存在していると思わせるのは脳が作るイメージでしかない。つまり幻である。それが肯定的な目標設定や夢の実現への力だとしても、未来を思えば、今が留守になる。それが情感を増幅させる思い出に浸る行為だったり、失敗則から学ぼうとする自助的なことだとしても、過去を振り返れば、その間はやはり今を留守にすることになる。
今というのは、言わば中心線だと思う。未来や過去を思うということは、直立した姿勢を保てなくなるほど前後左右に揺さぶられることに似ている。つまり不安定になる。
ただ、思考の特性からいって、何かを考えるということは、未来か過去に思いのフックをかけることになる。
例えば、小説や映画に感動したとしよう。言葉にならない感動も、次第に自分の状況に置き換えたりしているうちに、自分だったらこうするああすると、ああしたこうした、などと未来過去へのイメージと繋がってしまう。極論すれば、思考というのは、必ず今を離れて未来や過去に自分を移動させてしまう物だと思う。
ヨガは、自分の体や呼吸に意識を向け続ける事で、思考から解放され、不要な不安や妄想的な高揚から自由になって、ただの自分へと、本来の自分へ、今へと帰してくれるのだ。
そこには、均一な静寂があって、まるで宇宙そのものになったかのような調和を感じられるだろう。完璧な調和は、探すべき遠い場所にではなくて、自分の今にあるのだと感じられる。とても幸福な時間だ。

4ページ目につづく

031904

では、ポーズなど取らずに瞑想でいいのでは?と思う向きもあると思うが、確かに瞑想でそういう感じに至れればそれでもいいはずだ。
だが、瞑想は8段階の7番目のヨガである。それなり自分を訓練してからでないと簡単ではないと思う。
私の経験からだと、気、血液、リンパ液などがポーズに因ってスムースに流れ始めることで、思考から解放され今に繋がることが容易になる気がする。つまりメンタルとフィジカルが相互に好影響を及ぼし、良い結果へ至るのだ。
ヨガをしていると、人間の特徴であり長所と思われている「思考」というものが、いかに人間を縛っているのかが実感できる。主客が逆転してしまって、思考に動かされている体と魂がいる。
とはいえ、私達はヒマラヤの山奥で霞を食べて生きているわけではない。祖先から面々と引き継がれて来た結果の現実と日々向き合って暮らしていかなくてはいけない。
だからこそ、時々は本来生きるべき今を取り戻し、心と体と、魂の健康をリセットするためのセルフチェック時間を必要としている。
ジョギングでもフラダンスでも武道でもいいのだが、フィジカルと共に今に戻れる何かを暮らしの中に1つキープしておくことは、大人のたしなみの部類に入ると思う。
そしてフィジカルには一方通行ではなく、ループがあるものがいい。もしくはループさせるといい。ヨガならば、太陽礼拝を何度も繰り返しているうちに思考が消え、自分が透明になっていくのが分かる。
自分が消えた時に、本来の自分が現れる。なんだか禅的な感じになってしまって、ヨガに申し訳ない。あ、でも禅もヨガの一つだから、いいのかな。
しかし、ループかあ。円環。まどかたまきというペンネーム、どうだろう。だめですね。何方かに差し上げます。
(つづく)

※『藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」』は、新月の日に更新されます。
「#16」は2015年4月19日(日)アップ予定。

  1. HOME
  2. 生活・趣味
  3. 藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」#15ヨガ

NeoL/ネオエル

都市で暮らす女性のためのカルチャーWebマガジン。最新ファッションや映画、音楽、 占いなど、創作を刺激する情報を発信。アーティスト連載も多数。

ウェブサイト: http://www.neol.jp/

  • ガジェット通信編集部への情報提供はこちら
  • 記事内の筆者見解は明示のない限りガジェット通信を代表するものではありません。