自立と予祝について
今回は内田樹さんのブログ『内田樹の研究室』からご寄稿いただきました。
自立と予祝について
『ひとりでは生きられないのも芸のうち』が文春文庫になる。鹿島茂先生がステキな(ほんとうにステキな)解説を書いてくれた。私も文庫版のために“あとがき”を書き足した。そのなかに“贈与”について書いたので、その部分だけここに抜き書きしておくことにする。
“贈与”というのは“コンテンツ”の問題ではなく、“構え”の問題だということ、程度の問題ではなく、原理の問題だということ。それについて書いた。
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この本の最後に収められた『あなたなしでは生きてゆけない』という短文は“連帯を通じて自立する”ための逆説的な理路について書いています。
自立は“その人なしでは生きてゆけない人”の数を増やすことによって達成される。僕はそう書きました。
“その人なしでは生きてゆけない人”に対して、僕たちは必ずや「あなたにはこれからもずっとずっと健康で幸福でいてもらいたい」と祈ります。
その予祝の言葉に対しては必ず同じく祝福の言葉が返される。
予祝に対しては予祝を以て応じなければならない。
「おはようございます」に対しては「おはようございます」と返礼することが義務づけられている(この義務をおこたるものにはきびしい社会的制裁が待ち受けています)。
それと同じように、「あなたなしでは生きてゆくことができません。あなたの末永い健康と幸福を私は切に願います」という予祝の言葉に対しても、それと同文の言葉を返すことが人類学的には義務づけられています。
もちろん、そのようなつよい予祝の言葉を贈ることのできる相手は「おはようございます」というあいさつを向けることのできる相手よりもはるかに限定されています。でも、ゲームのルールは変わりません。
そのような相互的予祝のネットワークのうちに自らを位置づけること。それが僕は“自立することが困難な時代における自立”のかたち、つまりその語の本来の意味における“自立”ではないかと思うのです。
私たちは自分が欲するものを他人にまず贈ることによってしか手に入れることができない。それが人間が人間的であるためのルールです。今に始まったことではありません。人類の黎明期(れいめいき)に、人類の始祖が“人間性”を基礎づけたそのときに決められたルールです。親族の形成も、言語によるコミュニケーションも、経済活動も、すべてこのルールに準拠して制度化されています。
繰り返します。私たちは自分が欲するものを他人にまず贈ることによってしか手に入れることができない。
祝福の言葉を得たいと望むなら、まず僕の方から「あなたにはいつまでも幸福でいてもらいたい」という言葉を贈らなければならない。まず贈与するところからすべては始まる。
というようなことを書くと、「贈与するも何も、僕は赤貧であって、他人に与えるものなんか、何もありません。それよりまず僕に何かください」と口をとがらせて言う人が出てくるかも知れません。
でも、残念ながら、“そういうこと”を言う人は、その言葉によって自分自身にのろいをかけていることに気づいていない。
そういう人はそのあと仮に赤貧から脱することができたとしても、「私は十分に豊かになったので、これから贈与をすることにしよう」という転換点を見出すことができません。いつまでも“貧しい”ままです。そこそこの生活ができるようになっても、「世の中にはオレより豊かなやつがいっぱいいるじゃないか(ビル・ゲイツとか)。贈与なんて、そいつらがやればいいんだよ。オレには家のローンとかいろいろあるんだから……」そういうふうにしか言えなくなってしまう。
それが「まず僕に与えてください」と言ってしまった“自分に対するのろい”の効果なのです。
他人に贈与しない人はだれからも贈与されることがない。その人は自分が必要とするものをすべて自分で手に入れなければならない。
「それでも、いいよ。だれにも面倒なんかみてもらわなくても、オレはひとりでやれるから」と言う人がいるかもしれません。けれども、個人の努力で手に入れられるものには限りがあります。現に、僕たちが享受している“社会的共通資本”(海洋や森林のような自然資源や上下水道や通信網のような社会的インフラや司法や医療や教育のような制度資本など)は個人的決断によって改変することができません。いくらひとりで踏ん張っても、海洋の水質を保全したり、治安を維持したりすることはできない。
そういう仕事はみんなで少しずつ分担するしかない。
自分に与えられた場所で(僕の場合なら教育の現場で)、自分の割り当て分よりも少しだけ大目に働く。就業規則には書かれていないけれど、だれかがそれをやっておくと、システムの瑕疵(かし)がカバーされ、“いいこと”が少しだけ積み増しされそうなことがあれば黙ってやる。そのオーバーアチーブ分は給与には反映しない。“持ち出し”です。それが仕事を通じての“贈り物”です。
すべての人がそれぞれの現場で、ちょっとずつオーバーアチーブする。それによって、社会システム全体の質が少しだけ向上して、僕たちは生活の全局面で(電車が時刻表通りに来るというようなかたちで)そのささやかな成果を享受することができる。そういう意味では、僕たちはすでに贈与と返礼のサイクルのうちに巻き込まれているのです。それが順調に機能している限り、僕たちは人間的な生活を送ることができている。
そんなのは“当たり前”のことであって、自分はだれからも贈与なんか受け取ったことはない、だからだれにも贈与しない、オーバーアチーブなんて冗談じゃない、というふうに考える人、つまり“「受け取るだけで、次にパスを出さない人”は贈与と返礼のサイクルからしだいに押し出されて、周縁の“パスの通らないエリア”に位置づけられることになります。もちろんそこでも基本的な社会的サービスは受けられます。でも、その人あての、パーソナルな贈り物はもうだれからも届かない。
ですから、“自分は貧しい”と思うなら、そのような人こそ贈与と返礼が活発に行き交っている場に身を置くべきなのです。どれほどわずかであっても、手持ちの資源を惜しみなく隣人に贈る人はこのサイクルにおける“ホット・ポイント”になります。贈与と返礼のサイクルはこの“ホット・ポイント”に資源が集中するように制度設計されています。
それはボールゲームで“受け取ったボールをワンタッチで予想外の多彩なコースにパスするファンタスティックなプレーヤー”のところにボールが集まるのと同じ原理です。受け取ったボールを決して手離さないプレイヤー、受け取ったボールをつねに同じコースにしかパスしないプレイヤーにはそのうちだれもパスしなくなる。
僕たちの時代がしだいに貧しくなっているのは、システムの不調や資源の枯渇ゆえではなく、僕たちひとりひとりが“よきパッサー”である努力をおこたってきたからではないかと僕は考えています。僕たちは人間の社会はどこでも贈与と返礼のサイクルの上に構築されているという原理的なことを忘れかけていた。だから、それをもう一度思い出す必要がある。僕はそう思います。
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いつもの話だけれど、この考え方がいつか常識に登録されるまで、私は同じ話を繰り返すつもりである。
執筆: この記事は内田樹さんのブログ『内田樹の研究室』からご寄稿いただきました。
文責: ガジェット通信
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