芥川賞作家・小野正嗣が描く ある少年の物語

芥川賞作家・小野正嗣が描く ある少年の物語

 小さな入り江とそれをぐるりと囲む低い山並みに挟まれた、海辺の小さな集落。目をつむると波の音が聞こえ、日が落ちると闇と静寂が訪れ、人々の心の傷を癒し温かく包み込んでしまうようなところ――「きらいだったのよ、大きらいだったのよ、あんなところからはとにかく早く出て行きたかったのよ」と母が言っていた土地。

 小説『獅子渡り鼻』は、10歳になったばかりの少年である主人公・尊が、母のふるさとであったその土地を訪れるところからはじまります。

 決して良い母親だったとは言えない自らの母と、知能が遅れていることを思わせる兄の存在。なぜ尊は母のふるさとであるこの土地を訪れることになったのか、そしてなぜいま尊のそばに母と兄はいないのか、詳細なところが語られることはないものの、母の情事のもつれによって、尊自身も傷を負った状態でこの土地を訪れたのだということが伝わります。

 10歳という年齢を迎えるまでの年月、母と兄との関係を通して尊は何を感じ、いかなることに思い悩み、幼いながらもどのような世界を見てきたのか。物語を読み進めていくと、尊の記憶を通してその世界が少しずつ立ち上がってきます。

 そして今、尊が辿り着いた母のふるさと。

「いーんじゃが、いーんじゃが」

 尊はその土地の至るところで、すでに死んでしまった人物の声を耳にします。「いーんじゃが、いーんじゃが」というその声は、全てを肯定し許してしまいます。そのため、その存在のあまりの大きさの前に、はじめは逆に恐怖を感じ逃げ出していた尊ですが、「いーんじゃが、いーんじゃが」という声に後押しされる形で行動をしていくうち、次第に目を背けずにその声を受け入れていくことができるようになります。

 複雑な家庭環境で生きてきたために必要以上に自分自身を抑えることを覚え、多感にならざるを得なかった少年は、母のふるさとの土地—-リアス式海岸の入り組んだ海岸線が作る小さな湾に面した集落の空気を吸い、そこに住む、住んでいた人々と接していくなかで、何に触れ、感じ、そして心の変化を遂げていくのでしょうか。『9年前の祈り』で芥川賞を受賞した小野正嗣さんが、繊細な筆致でその様相を描写していきます。

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