藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」#12動物
沖縄本島の中部、とある村に住むようになって、動物がさらに身近になった。
ついこの前も台風でやられた庭のパパイヤの木に、一羽のサシバが留まっているのを見つけた。渡りの猛禽類であるサシバは十一月頃に沖縄にやってきて、春になると去って行く。ここに住む人間達にとって、サシバは冬を運んでくる存在だ。
甲高い声でキキッーと鳴き、我が家の眼下に広がる谷を縄張りとする一つがいが、互いに声かけ合って暮らしている。
パパイヤに留まっている姿は美しく、私はカメラを手にして、キッチンの窓越しに数枚撮影した。まさに息を飲むようにして構えた我が姿は、その家の主というよりかは泥棒のものであり、撮るということがある場面では盗むことに似ている、もしくは同等であることを頭の片隅で意識しながら、サシバにレンズを向け続けた。
猛禽類というのは美しい。
「デザインと機能」の関係を持ち出すまでもなく、その姿は今を生きる上で完璧なものに思えた。さらに、その眼光である。肉食動物の研ぎすまされた眼の力は、怖いというよりも崇高ですらある。
私は、キッチンの冷蔵庫を盾に隠れながら、さながら戦地にでもいるかのような姿勢で、サシバを撮影した。
過去に、「旭山動物園写真集」を作った時に感じたことだが、動物とは言葉ではなくて「思い」でコミュニケーションすることが案外簡単だと思う。言葉が通じないのだから、実際「思い」に頼るしかないのだが、この当たり前をしっかりやることの大切さを実感している人は案外少ないのではないか。
私は動物を撮影する時にも、ひとまず失礼の無い振る舞いを心がけている。
「すいません、ちょっと撮らせてもらいますね」というのは、実際口に出してよくつぶやいている。
花から花へと忙しい蝶々などの昆虫にもこれらは大切で、礼を尽くすといい写真がいただける。
先の動物園写真集の時にも、私はそんな風にして全ての動物を収めていった。情熱大陸に出演させていただいた時に、カバに向かって「綺麗ですねー」と話しかけながら撮っている場面があったが、まさにあんな感じなのである。
キッチン撮影でのサシバにも、「そろそろ飛んでもらえませんか?」と「思い」を送ったところ、すぐに応えてくれた。
このエッセイのはじめに、村に住むようになってさらに動物が身近になったと記したが、近所にはヤギや馬までもがいる。
よく歩く犬の散歩のコースにはアグーという沖縄名産の毛長豚がいて、時々会いにいく。柵越しに鼻先を伸ばしてくる姿はとても愛らしい。薬草でもあるセンダク草を道ばたから抜いて差し出すと、数頭が争うようにして食べてくれる。
豚と人間。立場的には、餌を与える者と餌を与えられる者である。そんなことを豚がむしゃむしゃする間考える。飼われている豚は人の助けがなくては生きてはいけない。世話をする者、される者との関係。この感じをペットの枠にはめて少し伸ばしてみると、癒す者、癒される者、となる。
だが、癒しとなると、ちょっと位置が逆転して、癒す者はペットの方で、癒されるのは人間になっていることが多い。
実際ペットショップでショーケース前に並ぶ人たちは、「かわいいー、癒されるー」と口にしていることが多い。人はペットを飼い、世話する代わりに癒しを与えられているという一つの構図が確かにある。
だが、癒しというのは世話とは違って相互的なものだ。一方通行の癒しというのは、本当の癒しとして成り立ちづらい。当人は癒しているつもりはないだろうが、ペットにしてみればいつも可愛がってくれている飼い主の存在は立派な癒しになっていると思う。
だが反面、全ての飼い主がそうとは限らない。それは年間に殺処分されるペットの数にも見て取れる。猫では約二万頭、犬は約八千頭もの数が飼い主からの依頼によって殺処分されている。いったい一日にどのくらいの数の命が消されているというのか。
「可愛いー、癒されるー」と言った口が、「ごめんね、お別れだね」と言うのである。
愛し続けること、癒し続けることは、世話をし続けること以上に難しいということだ。
癒しは相互的なものだと私は常々強く感じているのだが、受け取ることだけを意識している癒しは、奪う事だけに忙しいのと一緒だ。
対象が人であれ動植物であれ、他者と接する時にそれぞれの持つエネルギーの流れが変わるが、子供の時から競争することに慣らされている人にとっては、表面的には柔らかな笑顔で装っていても、本人も気づかないうちに相手からエネルギーを奪おうとする癖がついている。相手から何かを引き出そうと、自分が得ようとするばかりで、与えるという意識がないまま、全て自分の都合に合わせようとするし、それがうまくいかないとヒステリックになることもある。対象に直接怒りが向けられない場合は、自分よりも弱い立場の人間や動物にあたったりもする。
奪うことばかりで、与える、がないといつも戦争をしているようなもので、やがて本人が気づかないうちに疲弊し、体や心を病むことになる。
奪う事で満たされようとするのには、限界があるのだ。
仏教の有名な教えに、因果応報というのがある。悪い事をすれば、悪い事が返ってくるし、良い事をすれば、良い事が返ってくる。つまり、自分のしたことは、全て自分に返ってくるという、ちょっと怖い教えだ。
これは、そっくりヒーリングにも当てはまる。相手に癒しを与えれば、自分も癒される。癒されようと躍起になっているうちは、その癒しは得られても短時間で、心の芯から癒されることはない。
動物というのは、言葉という人間が発明した道具を持たない代わりに、より発達した伝達手段を持っているとされる。さらにヒーリング能力にも長けていて、イルカやオオカミの例では、重度の鬱に悩む人間の子供の心を簡単に開いてしまう。それはただ見つめ合ったり、接するだけなのだが、専門医があらゆる手と時間を尽くしても塞がっていた子供の心を柔らかく開いてしまうのだ。
そのヒーリング能力は、人間にもある。本来、人は人を、人は動植物などをしっかりと癒せるのだ。
そしてそれは癒しを与えるという発想から始まるのだと思う。
癒されたいと願うのならば、因果応報よろしく、まずは癒しを与えればいい。ペットに癒されたいなどと思わずに、むしろその小さな命を癒そうと意識を変えられたらしめたものだ。そもそも自分よりも脆弱な命から癒しを引き出そうというのは、なんだか貧しい。むしろ守って癒してあげなければ、と思う方が当たり前な気がする。
ペットを飼っている人なら、心をこめて撫でたり、優しい言葉をかけてあげたりすることで、癒しを与えられている。その良質のエネルギーがペットと人間との間で絶える事の無い循環を生み出す。
動物は植物などの他の生物よりも、人間に近い分、感情移入しやすく、癒しを与え易い対象だ。
ペットを飼っていなくて、動物が身近にいない人も結構多いと思うが、そういう人も、カラスや雀などは目にできるだろう。それらが一日をどう生き抜いているかを想像し、その小さな命が今日も健やかに無事過ごせることを願うことで、癒しを与えられる。
癒しを与えるなどと言うと、かなり難しそうだがそうでもなく、相手を優しく思いやることだけでもいい。キリストやブッダのようにはいかなくても、せめて通勤通学途中に目にした雀を優しい目で眺めることは可能だし、その心の余裕を創るエネルギーが、その人自身も知らないうちに癒す。
田舎に暮らさなくても、都会でも以外と多くの種類の動物がいるもの。同じ街の仲間として、彼らを優しく見守れるような心境を保つことができれば、気づくと心身のコンディションが整っていると思う。
癒しは与えるもの。
良い年をお迎え下さい。
ハッピークリスマス。
戦争は終わった。
(つづく)
※『藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」』は、新月の日に更新されます。
「#13」は2015年1月20日(火)アップ予定。
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